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大口広司に捧ぐバースデーパーティ!

大口広司に捧ぐバースデーパーティ!2


ウォッコリンズ結成当時の会見より
ウォッカコリンズのドラマー、大口広司さんは、2009年1月25日亡くなられました。
このサイトでは、大口さんのご冥福をお祈りし、これからも関連情報を掲載していきたいと思います。


ウォッカ・コリンズは、アラン・メリルと大口ひろし(テンプターズ・PYG),横内タケ(ハイ・ソサエティー)が'72年に結成したグラム・ロック・スタイルのバンド。
サディスティック・ミカ・バンドと共に、ファッション誌に登場したり、当時のロック・バンドとしては、すごくおしゃれで先端的だった。

ここでは、アラン・メリルにウォッカ・コリンズ時代のことを中心にインタビューしました。
 


A:72年の半ばには、ヒロシとハルオといっしょにユーヤのバックもやっていた。ゴジラと未来のウォッカ・コリンズのメンバーがいっしょに活動していたんだ。ミッキー・カーティスやムッシュのバックもうやっていて、朝はテレビ、昼はラジオ、夜はライブをやるほど忙しい日も多かった。
それからムッシュのバックだけをやるようになったんだ。
最初のムッシュとのツアーは、72年の夏の終わりだった。俺たちはバック・バンドで、ベースは俺、ドラムはヒロシ、ギターは、タカナカだった。俺たちは、福島から札幌までツアーをした。このときは、俺はコーラスだけで歌は歌わなかった。このツアーで俺とヒロシは、息投合していっしょにやることにしたんだ。タカナカがサディスティック・ミカ・バンドに参加することになって抜けたので、俺がギターになって、横内タケ(元ハイ・ソサエティー、後にTensaw)をスカウトした。俺たちは、タケにフェンダー・ムスタングを買わせた。俺たちは、Rストーンズが好きだったから、ビル・ワイマンと同じのにしたんだ。
そして四谷のスタジオでオリジナルを作るためセッションをするようになった。こうして自然にウォッカ・コリンズができたんだ。
ウォッカ・コリンズという名前にしたのもそれが、キース・リチャーズがすきだった飲み物(カクテル)の名前で、ヒロシのアイデアだった。
ウォッカ・コリンズは「a magical group in a magical time in a magical country」だった。すぐに終わってしまったことがとても残念だ。

橋本タイジ(元ハイ・スパンキー)*が俺たちのサポーターで、すごくよくやってくれた。俺たちとは強いきずながあったんだ。

* ハイ・スパンキーは、ジャニーズJR出身で渡辺プロからデビューしたアイドルグループだった。 タイジはウォッカ・コリンズのツアー・マネージャーとしてメンバーを支えて献身的に仕事をしたようだ。再結成アルバム 「ボーイズ・ライフ」の中では、コーラスも担当している。また2010年1月に行われた大口さんの追悼コンサートでは、横内タケと共に登場、ストーンズナンバーを熱唱した

A:コンサートで「Sonds Of Time」を演奏するときは、いつも彼があらかじめ切っておいた銀紙を上から降らせて、それがライトを反射してとてもきれいだった。*

某所のステージでは、花吹雪を入れておいた容器から一箇所にまとめて落ちて大変なことになったことも・・・(笑)そんな手作りの時代でした

H:他に影響を受けたのは?
A:俺たちは、グラム・ロックとストーンズとルー・リードが好きだった。ヒロシがルー・リードやモット・ザ・フープルのことを教えてくれたんだ。それからD・ボウイの「Hunky Dory」をよく聴いていた。

A:俺は、たくさんのStrangeでコマーシャルでないオリジナル曲を書いた。魔女やゲイやレスビアン、麻薬中毒、いろんなテーマの曲を書いた。ビートルズの影響から逃れて、ディランの「ブロンド・オン・ブロンド」を聴くようになっていた。そしてラブ・ソングのほかにもたくさん書くべきことがあるのがわかったんだ。
それは、ソング・ライターとして、自分にとっては、大きな変化だった。

H:ライブはどんな感じだった?
A:はじめのころは、まず最初に「Automatic Pilot」と「Sands Of Time」や「Pontiac Pan」みんな英語のオリジナルだった。時々「Under My Thumb」、「Sympathy For The Devil」「Junpin’ Juck Flash」なんかも演奏した。まだレコードは出していなかった。
それからムッシュがでてきて「急がなきゃ」や「Brain Food Mama」「Ban Ban Ban」なんかを歌った。時々森山良子がきて、「You're So Vain」を歌ったこともあった。

後からは、3人だけのライブもやったし、ムッシュといっしょのときもあった。

ムッシュは、バンドにとって、ゲストでもあり名誉メンバーでもあった。彼はいつもまるで兄貴のように俺たちをサポートしてくれたんだ。すごく感謝しているよ。

H:写真では二人だけで写っていることが多いのは何故?
A:ヒロシは、メンバーに流動性をもたせたいと思っていたんだ。それから視覚的には、アメリカ人一人、日本人一人というコントラストがおもしろいと考えていた。それは、国際的にアピールすることも考えていたんだ。それからギタリストとパーカショニストの二人だけというのは、ティラノザウルス・レックスも意識していた。俺とヒロシの二人、それがバンドの核だった。

 

A:ウォッカ・コリンズはすばらしいバンドだった。コマーシャリズムに躍らされず、自由に自分たちのやりたい音楽をやっていた。でも問題があった。給料がすごく安かったんだ。俺は、マネージャーにあと1万円でいいからあげてほしいと頼んだけど笑ってとりあってもらえなかった。給料だけでは、家賃を払って食べてゆくこともできなかったんだ。
最初のうちは、スタジオ・ミュージシャンとしてのかせぎで補っていたけど、ウォッカ・コリンズが忙しくなるにつれてそれができなくなって、金銭的にきびしくなってしまった。
ヒロシが実家から肉を*持ってきてくれたこともある。友達が食事をごちそうしてくれたり、デザイナーの友達が洋服をくれたりしてやっと生活していた。1日ラーメン1食ですごしたこともあったんだ。

* 肉屋さんです。 このように内実は、かなり逼迫したものだったが、当時の先端な人たちが集まることで知られていたキャンティ人脈でもあり、アランや大口ひろしがファッション雑誌に登場したりと、グラマラスな衣装に身を包み、派手なイメージがあった。また今とはちがって元GS出身のムッシュ、大口ひろし、元アイドルになりかけのアラン、元アイドル・バンド出身のタケというメンバー構成は、当時のどちらかというとジーンズや薄汚いファッションのロック・ファン(今みたいにロックには、まだ市民権がなく、またロック・ファンの中には海外のバンドしか聴かないファンも多かった)にとっては、彼らは、サウンドをうんぬんする前になんだかまぶしい存在だった。中にはそれで、音を聴く前に敬遠した人もいるはずだ。金銭問題も給料が安かったというよりは、外人ということもあり、高収入だったスタジオミュージシャン時代から住んでいたマンションの家賃が高く、給料に見合ってない状態になってしまったというほうが実情に近いようだ。

A:前からWatertower West時代からの友達 Jake Hooker に毎日のように「いっしょにバンドをやりたいからイギリスへ来い」と誘われていたけど俺には、ウォッカ・コリンズがあったから断っていた。でもとうとう金銭的限界に達して、俺はイギリスへ行くことを決心した。
それは73年の夏の終わりだったと思う。正確な日は覚えていないけどまだ暑かったから。*

 
*お母さんに相談したら、もっとちゃんとお金になる仕事を見つけるべきだとアドヴァイスされたのも渡英した理由のひとつ。
Jakeとは、アランが一時ニューヨークへ戻った時に、デモを録音したことがあった。
当時は、長期のVISAがとれなかったので、時々日本国外へ行って改めてVISAを申請しなければならなかった。アランは、香港へ2回、そのほかニューヨークとロンドンへも行っている。VISAが降りるまでには、6週間近くかかることもあり、待っている間にアランはそれぞれの場所でもセッションなど音楽活動をしている。 そしてJakeがアランといっしょに録音したデモテープをもとにイギリスでデビューできそうだと、アランを誘い、渡英のための航空券を送ってきたことが、この急展開を呼んだ原因になっている。それでも金銭的な問題が解決できればアランは、日本に残りたいと思っていた。  余談だが、VISA取得のために香港へ行ったときは、現地でたまたま知り合ったのが、60年代には、香港でバンド活動をしていて、その後香港で俳優として有名になるスウェーデン人のアンダース・ネルソンで彼がDJをやっていた番組に飛び入り出演したことがあるそうだ。

アランが旅立った日の一週間後に武道館に出演予定があったと覚えていたので、調べたところこのコンサートは9/2(日)だと判明、というわけで8月の末だったことになる。

H:お金がなくてもブリリアントでグラマラスな衣装を着てましたよね?
A:それは、友達のデザイナーたちが、グラム風な衣装を作ってプレゼントしてくれたり出世払いで作ってくれたんだ。みんな親切だった。*
 
*この中には、コシノ・ジュンコもいたそうです。

H:メイクは?
A:ガール・フレンドがやってくれた。

TOKYO NEW YORK (CDは東芝EMI TOCT9736)

H:アルバム「TOKYO NEW YORK」は、11月発売だけど

A:俺はアルバムが完成する前に日本を離れなければいけなかった。だからもうアルバムは出ないと思っていたんだ。もしあのまんま日本にいられたらもっといい作品になっていたと思う。
「Terminal City」は、まだ未完成だった。ベースの音が外れていて直すつもりだったんだ。「Diamond To Dungarees」は、ラフ・ボーカルのままだ。でもこれは、十分いいアルバムだと思うし、リリースされて良かったと思う。

タイジが74年の冬にロンドンへ「TOKYO NEW YORK」のアルバムを持ってたずねてきてくれた。俺はびっくりしたけど嬉しかった。それは、自分にとっては、未完成の作品だったから思いがけなかったんだ。タイジとクリスマスにいっしょに食事をしながら、このアルバムをはじめて聞いたんだ。

H:アルバム・タイトルは?

A:俺が残していったマスター・テープの箱に書いておいたタイトルだった。

H:「Automatic Pilot」のオーヴァーチュアは、誰?
A:柳田ヒロ。

H:日本語の詞を書いたのは?
A:「Automatic Pilot」と「Sands Of Time」は、もともと英語だったけど、ヒロシのアイデアで日本語にしたんだ。 
 

*2月のロックン・ロール・カーニヴァルでは、どちらも、英語で歌われている。
英語版と比べてもこの日本語は、元の意味を生かし、ビートを損なっていない。
大口ヒロシによれば、この訳詞は、彼自身が、元の英語の語感を生かしながら工夫したものだそうだ。
 
 
大口さんからこの詞の件に関してコメントをいただきました。 

SANDS OF TIME   &  AUTOMATIC PILOT / 日本語の歌詞 ですが、あれはオレが結構苦労してAlanが唄いやすい様に、曲のうたいだしが英語と同じフレーズで 出るにはどうしたらいいか.....とか/例えばAUTOMATICで言えば、英語の頭のフレーズ SO-----「ソウ」から出てくるんだけど、それで、
「そうしなよ お前一人」  なんて事でオレとしては、結構大変な作業だったんだ。
その事は当時、オレとAlanは、麻布二の橋で同じマンションのフロアー違いに住んでいたので朝でも 真夜中でも いいアイディアが浮かぶとお互いに、忘れない内に言い合える環境にいたので、あの曲もそうやって出来た曲なんだ。
 

アランが日本を去った時点では、このアルバムは、まだトラック・ダウンが終わっていなかった。レコード会社は、リリースは、困難だと判断したらしいが、大口が続行を希望、曲のつなぎやミックスに手を加え、アルバムのデザインを担当し、ついに完成させた。当初 冒頭のオーヴァーチュアには、ホルストの「惑星」の中から「ジュピター」を使おうとしたが、権利関係で断念したそうだ。アルバムジャケットに写っているアメ車、クライスラー・インペリアルも大口が所有していたもの。ホテルの前で大口がアメ車といっしょに写ったこのアートワークも、当時のほかのロック・バンドにはない、センスの良さを感じさせるものだった。
こうして彼の努力により、アルバムが完成しリリースされたことは、ファンの一人として素直に喜びたい。そしてこのアルバムは、今聴いても十分魅力的だ。

ウォッカ・コリンズは、日本のロック史の中で、活動期間があまりにも短かったため、あまり記録されていないが、こんなにもユニークで、素敵なバンドがあったことを忘れないでほしい。日本のロック・シーンが百花繚乱の展開をみせたのが、74-5年だったことを思うと、ウォッカ・コリンズが早い時期に分解してしまったのが残念。


H:日本語でもロックは歌えると思う?
A:もちろん フランス語でも日本語でもイタリア語でも! ハート・ビートとメッセージがあれば十分だ。

H:ウォッカ・コリンズには、サイケデリックなフィールもあったと思うけど、サイケデリックについてはどう思う?

A:Water Tower Westは、サイケデリック・バンドだった。だからサイケデリックは俺のルーツなんだ。14歳の頃に、ティム・リアリーと彼の仲間たちのところへ行ったことがある。母親が知り合いだったからさ。そこで食べた料理にはアシッドが混ぜてあって俺は、何も知らずにそれを食べてトリップしてしまった。

H:わあ そんなことが!
A:それはティムの娘がそこに集まった子供たちのために作ったアル・デンテのスパゲッティだった。

ウォッカ・コリンズで自由に音が作れるようになったとき、サイケデリックな要素が戻ってきたんだ。サイケデリックなジャム・セッションは、いつも俺の基本だったから。*
 

*70年代はじめに近田春夫と金沢ジュンといっしに広島で、ゴールデンカップスのメンバーとオールナイトのジャム・セッションをやったことがあって、これは、かなりフリーキーなものだったらしい。うーん 聴いてみたかった。
ミッキー・カーティスと「Merrill 1」を作ったときは、プロデューサーのミッキーは、非常に緻密な構成をもったバッキング・トラックを要求した。俺たちは、たったの4トラックでそれを作ったんだ。このような形では、サイケデリックなファクターというのは、表れなかった。知ってのとおり、原田裕臣と大野克夫は有能なスタジオ・ミュージシャンだ。だからあのアルバムにおいて こういう方法をとったミッキーの判断は、正しかったと思う。
再結成したウォッカ・コリンズでは、ムッシュとマー坊が加わった。だから音楽も少し変化した。『ピンク・スープ』では、SKYING, TUMBLEWEED, and MOTIVE CONFUSIONなんかにサイケデリックな要素がかなりあると思うよ。俺にとって究極のサイケデリックなレコードは、バーズの「Eight Miles High」とB面だった 「Why」なんだ。このシングルは、10代のころの俺にとって一番Amazingなレコードだった。
 
 

A:「TOKYO NEW YORK」は、まだ完成していないアルバムだった、だから「CHEMICAL REACTION」でもう一度あの頃の曲をレコーディングしたんだ。
曲のいくつかは、まだ 仮歌の段階だった。それからあと2曲入れる予定の、未完成のバッキングトラックが二つあった。

その歌を再結成アルバム「Chemical Reaction」でレコーディングしたんだ。
「Timeless 」は、もともと「Galaxy Man」と呼ばれていた、もうひとつ「Miss Cadilac」が当時未完成だった曲なんだ。「Chemical Reaction」で心のこりだったこの2曲をやっとレコーディングすることができた。
 

 


A:実は、マーボー(加部正義)は、オリジナルのウォッカ・コリンズのベースの候補の一人だったんだ。
外人と日本人そしてハーフの3人でやっているバンドなんておもしろいだろう。それに彼にはとても才能があった。でも彼は、スピード・グルー・シンキをやっていたし、これは、アイデアだけで終わって、タケを入れたんだ。タケは、いいプレイヤーだったし彼を入れたのは正解だったと思う。

2010 GET WELL JOE(ジョー山中支援ライブ)より、アランとタケ Photo By makico kawashima  
 

ちなみに73年夏ごろ「柳ジョージと不確定原理とルイズ加部」というユニットがあり、ここでは大口がドラムスを担当することもあった。


 
Chemical Reaction ポリスターPSCR5442
TOKYO NEW YORKのリメイク盤
95年録音

ベースは加部正義、ムッシュも全面参加している

Pink Soup Tower Bounce 0028 (廃盤)

Boy's Life VoCo7398


 

 

Pink SoupとBoy's Lifeは、グラム・オリエンテッドなサウンドではなく、20年を超えて復活した彼らの今の音を記録。骨太な大人のロックでBLUESやファンキーな曲もやっています。

Boy's Life では5曲が再結成メンバーによるもの7曲がアラン、大口、篠原信彦の3人にコーラスを加えた編成。 豪華メンバーによる90年の幻のライブのボーナストラック付
アランと大口ひろしのコンビは、今も最高!25年分濃厚になってます。
 


A:東京を離れるのは、とてもつらかった。本当は日本を離れたくなかった、東京が大好きだった。だから空港でまるで赤ん坊のように大泣きしたくらいだ。

渡英後、アランは、旧友 ジェイクとアロウズを結成。ミッキー・モストのRAKレーベルから74年に「Touch To Much」で、デビュー。この曲は6月に全英ベスト10にランク・インした。ミッキーは、彼らの音楽活動に非常に干渉したので、アランにとっては、まるで芸能界の悪夢がよみがえたような気がしたそうだ。この時もバンドのルックスのせいか本来やろうとしたことよりも、アイドルのような売り出し方をされてしまったのだ。自分たちで書いた自信作の「I Love Rock’n’Roll」もシングルにすることを却下されそうになるが、なんとかB面に入れてもらうことになった。ちゃんとしたプロモーションもなかったこの曲だが、口コミで人気が出て後からA面としてリリース。そしてこの曲を演奏する彼らをテレビで見て、気に入って後に自分のバンドでカヴァーして大ヒットさせたのが、ジョーン・ジェットだ。そしてこの曲は、ロックン・ロールの歴史に名を飾るクラシックとなった。

 
 

ARROWS の ファースト・アルバムは、ボーナストラック(全英8位のヒット、タッチ・トゥ・マッチやアイ・ラブ・ロックンロールを含む)付きで、2000年6月に 独Repertoire よりCDで再発され た!

これは、74年の東芝EMIの広告



 

Never Pet A Burning Dog

Rick Derringer  -  Guitar (Rhythm), Vocals (bckgr), Producer
Mick Taylor  -  Guitar, Slide Guitar
Steve Winwood  -  Synthesizer, Piano
Alan Merrill  -  Organ, Synthesizer, Bass, Guitar, Keyboards, Vocals, Producer
Damalza  -  Percussion
Mike Driscoll  -  Drums
Fiona Flanagan  -  Vocals (bckgr)
Steve Gould  -  Guitar, Vocals (bckgr)
Donnie Kisselbach  -  Bass, Vocals (bckgr)
Trevor Spencer  -  Drums, Producer
Dave Still  -  Percussion, Engineer, Mixing
Tom Strohman  -  Sax (Alto)
Alan Tarney  -  Guitar
Dallas Taylor  -  Percussion, Drums
Terry Taylor  -  Guitar, Keyboards, Vocals (bckgr)

このCDは、Alan Merrillというタイトルで、85年にリリースされたもので録音されたのは、79年から82年。


 


おまけ '90sのライブより

加部正義  大口ひろし                    
 アラン・メリル  かまやつ ひろし
 

その後の活動については、このページの趣旨から外れるので、ここで終わりにします。

以後のアランの活動に興味がある方は 

アランのCDについて

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