TheTigers
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タイガースの歴史は、65年に京都で結成された、"サリーとプレイボーイズ"というバンドに端を発する。最初は、楽器も友人からの借り物で、ベンチャーズのカヴァーなどをやる、当時よくある学生アマチュアバンドのひとつだった。メンバーは、岸部修三、森本太郎、高橋克巳、人見豊の4人。この頃すでに高校生ながら京都のジャズ喫茶「田園」に出演していたサンダースというプロのバンドで、ボーカルをやっていたのが、沢田研二だった。彼の歌に惹かれたプレイボーイズのメンバーは、沢田に声をかけ自分たちのバンドへの参加を誘った。11月には、岸部の兄の結婚式でアニマルズの曲を演奏。これには、沢田も参加している。
年があけて沢田が正式に加入、この前後にバンド名をファニーズと改名している。

この時点では、もちろん 後のニックネームは、まだつけられていないのだが、5人が揃ったここからは、あえておなじみのタロー、サリー、ジュリー、トッポ、ピーと呼ぶことにしよう。


サンダース時代の沢田研二



 
 
 
 
 

 
 
 

バンドのリーダーは、最初サリーが、次にトッポがつとめていたが、この時期にピーに変わっている。まず彼らが最初にやったのは、それまで借り物だった楽器を自分たちで買うためのアルバイトだった。
社交家のピーは、バンドの売りこみにも積極的で、メジャーになるためには、京都よりも1ランク上の大阪のジャズ喫茶へ出ようと大阪心斎橋の"ナンバ一番"へ行き最初は、相手にされなかったが、交渉の末、オーディションを受け見事合格、レギュラーバンドとなることができた。最初の契約は週1回の出演でギャラは、7000円だった。


ナンバ一番のファニーズ

 
この写真では、スーツを着ているが、当時は、Tシャツにコットンパンツといった服装でも出演していたようだ。このファニーズ時代こそタイガースがガレージバンドだった時期だ。このころは、アニマルズやストーンズの曲を上手くはないが、熱狂的に演奏していた。
そのうちファニーズ目当てのお客も増え、ベンチャーズのコンサートで、知り合いになっていたビートルズ・ファン・クラブの代表、森ますみが彼らのファンクラブを作ってくれた。このファニーズ時代のファンクラブでもすでに300人以上の会員を集める人気者になった。
当時のタイガースは、スパイダースのファンで全員スパイダースのファンクラブに入っていた。そして東京へでてきたら自分たちの事務所へ入らないかといわれていたらしい。もしここでファニーズが、スパイダクションに行っていたらきっとタイガースとは、全くちがう音を残していただろう。
だが、実際には、ナンバ一番で共演した内田裕也が彼らを認め、渡辺プロダクションへスカウトすることになる。当時の渡辺プロダクションといえば、自社で音楽番組を制作するなどもっとも力のある事務所で、タイガース自身もメジャーになるには、一番のところへ行きたいとナベプロへ入ることを選択している。

66年11月に上京したファニーズは、最初のうちは、内田裕也のバックバンドとして活動をはじめている。
その後単独でデビューすることになり、彼らの曲の多くを作曲することになるすぎやまこういちが、タイガースと命名した。最初にテレビ出演したのは、フジテレビの「ザ・ヒットパレード」で ここで彼らは、ポール・リビアとレイダーズの"KICKS"を演奏している。(これをビデオや8mmに撮影した人がいるという話は、聞いたことがありますが、実際の映像は、ごく断片しか見たことがありません。)このころリーダーは、サリーになっている。元々、友達同士ではじめたバンドであり、プロのバンドマンのような上下関係がなかったので、ひんぱんにリーダーが変わっているようだ。

67年2月発売のデビュー曲「僕のマリー」は、その後の少女向けアイドル路線の第1歩ともいえる、甘い曲で、それまでのファニーズのやってきた音楽とは、まったくちがうものだった。与えられたその曲にメンバーの側にとまどいがあったことは、想像に難くない。期待と不安に満ちての船出だった。実際この曲は、プロモーションの割りには、それほど売れなかった。(ただし、後にタイガースのファンになった人たちが、さかのぼってこのシングルも買っているので、残っている売上記録は、悪くないはず)
2枚目のシングルは、夏向けのビートナンバー「シーサイドバウンド」。メンバーにとっては、とまどいの多いデビュー曲よりもずっと演奏しやすかったはずだ。横に飛ぶステップも入って元気よく演奏していた。(なお「シャボン玉ホリデー」でこの曲を演奏する映像は、残っている。)5月に発売された当初は、あまり良いスタートといえなかったこの曲は、夏が近づくにつれブレイク。また同時期にジャガーズの「君に会いたい」カーナビーツの「好きさ好きさ好きさ」もヒット。熱狂のGSブームがやってきたのだ。
GSにとって、この夏から翌夏まで一番熱い1年がはじまる。

そしてタイガースをゆるぎのないアイドルの座に付けたのは、3枚めのシングル「モナリザの微笑」だった。王子様のようなで、クロマチック・ハーモニカをフィーチャーしたもの悲しいバラードを歌う彼らは、ほかのバンドとはちがう気品があった。当時の基準では、男の子とは思えないくらいきれいでかわいかったジュリーこと沢田研二。そしてそのほかのメンバーもそれぞれ個性があり、愛嬌があって、女の子たちは、「私は、ジュリー」「私は、トッポ」とそれぞれの好みのメンバーを見つけて応援したものだ。タイガースは、それまでのレコード購買層よりも低年齢のファンをつかむことにも成功した。
ロックンロールというのは、元来いかがわしさがあるものだが、タイガースは、王子様になることで、このいかがわしさを排除したかのようだった。GSの場合たいてい、ひらひらの服を着るには、無理なルックスの人が混じっているものだが、タイガースは、その点でもあまり違和感がなかった。
事務所の方針は、「タイガースに本来の持ち味とちがうソフトなものをもちこむ。そしてテレビやレコードとライブでは逆のことをやる。ライブでは、ワイルドで激しい舞台を展開すること」この意外性でファンを増やすという作戦だった。
実際彼らのファーストアルバムは、ライブアルバムで、ここでは、ローリングストーンズナンバーを中心に、ワイルドなタイガースをアピールしている。シングル盤での彼らしか知らない人は、ぜひこれを聴いてほしい。
 


 
 
  
タイガースもデビュー当時は、髪が短かった。そしてビートルズのようなマッシュルームにしたくて床屋へ行っても、ぶっつり切られてうまくいかなかったようだ。そこで、声をかけてくれたのが、上京当時住んでいた烏山の美容室。当時は、男が美容院へ行くなんてとんでもなかったので、閉店後にこっそりカットしてもらったそうです。

月刊明星 67年11月号より タイガースのヘアスタイルの秘密
                                      
1姶める前の雑談。美容師に個性をつかんでもらうためには必要なことなのだ。
2洗髪。リンスを使って髪をやわらかくする
3カット。各ブロックに分けた髪を、えり足の部分からレザーカットする。
4パーマ。タイガース専用につくられたパーマ液と、アミ・カラーを使用。
5ドライヤー。髪をかわかし、仕上げする。
6仕上がりを、前・横・後ろから見たもの。(タイガース行きつけの「ぴようしつ・たぶろう」で)
・・・ジユリーは男だ。パーマをかけるといっても、自然なくせ毛程度。パーマ液も特別に
ゆるいものを使う。それに、アミ・カーラーを使用するため、セットも兼ねられるという利点がある。寝ても、舞台で激しい動きをしても、仕上りの時のふっくらした感じはそう簡単にとれない。
 カットは、レザー(かみそり)が毛の1本1本に直角に当たるようにやる。そして、ロング・ヘアは頭が重くなりがちなので、トップ(てっペん)の部分はかなり毛をすいて軽くしてあるのも独特な工夫。

この頃のタイガースは、コンサートをやるたびにファンが増えてゆき、嬌声のうずまく人気者になっていた。そしてその中で、不幸な事件がおきる。11月5日奈良のあやめ池でのコンサートで殺到したファンが将棋倒しになり怪我人の出る事故がおきたのだ。そしてこのため、すでに収録済みだった、はじめてのNHKへの出演(それは、紅白歌合戦への出演への布石でもあった)が中止となり、この時の映像は、破棄されてしまった。(これは、まことに残念)。もともとNHKは、このGSブームをあまり心よく思っていなかったようであれだけのブームでありながら、結局、ブルーコメッツやワイルドワンズといった短髪系のGSがわずかに出演を果たしただけである。これで一番とばっちりを受けたのは、同じくNHKの出演が決まっており、紅白出場も有力視されていたのに、NHKにしめだされてしまった長髪GSのスパイダースだった。だが、この事件は、ファンの結束を固めることにもなり、人気は、更に加速した。

12月には、「タイガースチャリティショー」というコンサートを開きその収益70万円を寄付している。これは、レコード大賞ネライのパフォーマンスともいわれたが、それは、事務所の思惑で、やっている本人たちは、もちろん一生懸命だった。
この時のコンサートのライブは、レコード化されていないが、当時オープンリールで発売されていたので、いつかCD化してほしいものだ。(なお この録音の一部は、現在、『From GS To New Rock』というCDで聴くことができる。)

結局この時のレコード大賞新人賞は、逃してしまうのだが、その理由は、大賞がブルーコメッツだったので、GS勢に独占されたくないという思惑が働いたからだともいわれている。(翌年の新人賞は、タイガースガール、久美かおりだった。68年の彼女と67年タイガースのどっちが売れたかは、一目瞭然だろう)
 
 
 

ステージでのタイガースのレパートリーを少し紹介しよう。
ピー:バラバラ、ジャスティン、オーケー、彼は、ビート感のある曲で本領を発揮している。
タロー:ハッピー トゥゲザー、イエロー・リバー
トッポ:ホリディ、ワーズ、アイ プット スペル オン ユー、アイ・スターティッド・ザ・ジョーク
サリー:ドック・オブ・ザ・ベイ、テルミー、涙あふれて サリーの低音で歌うドッグ・オブ・ザ・ベイは、他のGSには、ない味があった。ジュリー、トッポの影に隠れてソロ曲があまり残っていないのが残念。
ジュリー:傷だらけのアイドル→鎖をひきちぎって狂おしく歌っていた
シーシーライダー、後にソロになってからも歌っているので、お気に入りだったらしい。
ヘイ・ジュテーム、二人のシーズン  etc.
 
ジャズ喫茶への出演ではじまった68年の1月には、「君だけに愛を/落葉の物語」をリリース。ジュリーが「きみだけにいい・・・」と絶叫するとき、どれだけおおくの女の子が胸をときめかせていたのだろうか。(実は、4枚目として最初にレコーディングされたのは、後にワイルドワンズがヒットさせた「愛するアニタ」だった。がこれは、没になり「君だけに愛を」をリリースすることになった。この選択は、正解だったと思う。なおこのタイガースの「愛するアニタ」は、解散後出たベストアルバム「タイガース物語」の予約特典のEPに収録され現在では、「Legend Of The Tigers」というCDに収録されている。このCDには、他にも「ハーイ・ロンドン」の中で歌われた「Lovin’Life」のスタジオ録音盤など、未発表やデモが収録されている)
 

2月になると初の主演映画「世界は僕らを待っている」の撮影に入った。これは、ジュリーと地球へ迷い込んだ宇宙人の王女シルビーの淡い恋物語というおとぎ話。
この映画のサントラ盤LPもでているが、実際には、スタジオ録音を映画のセリフでつないだもので、ヴァージョンがちがっている。おもちゃのピアノではじまる「イエローキャット」は、映画のヴァージョンのほうが、ずっとかっこいいので、ぜひこっちも聴いてほしい。この映画の1シーンで使うため3月には、日本武道館でファンを集めて「花の首飾り」発表会がひらかれた。こうしてできたこの映画は、4月10日に封切られた。映画のラストでは、UFOに乗せられたジュリーがアンドロメダへ連れていかれそうになり武道館にいるファンにみんなの力(=いっしょに合唱する)で、地球へ呼び戻してほしいとメッセージを送る。そして武道館のコンサートを見ているファンと同化した映画館のファンもいっしょになって合唱する光景が、あちこあちの映画館で展開された。これほどのパワーがあったのだ。

この頃には、67年10月にデビューしたテンプターズが、タイガースに追いつき追い越せとよきライバルになっていた。
タイガースとテンプターズは、それまでのGSが、古いバンドマンの系譜につらなっていたのに較べ、10代の若者が友達同士でじはじめたアマチュアバンドからスタートしているという点でも新鮮だった。

このブームの中、GSを中心にしたティーンのための雑誌、ティーンルック、セブンティーンが相次いで創刊されている。特にティーンルックのほうは、タイガースがCMソングを歌い、ラジオでは、「レッツゴー・タイガース」という番組のスポンサーでもあった。この「レッツゴー・タイガース」では、ジャズ喫茶のライブやスタジオ・セッションなども放送された。こういうのは、どこかに録音が保存されていないのだろうか。(BBCセッションのようなラジオ音源の発掘が日本では、ほとんどないのが残念)

タイガースとCMといえば、切っても切れないのが明治製菓のチョコレートのCMだ。
これに関しては、Kiyomiさんの60年代通信で詳しく紹介されているのでそちらをご覧ください。

60年代通信:明治製菓のCM

この映画の中で使われた「銀河のロマンス/花の首飾り」は、両A面としてリリースされた。そしてシングルで、トッポがはじめてリード・ボーカルをとった「花の首飾り」は、A面をしのぐヒットとなった。この曲がロックかどうかは、疑問が残るが、彼の透明感のある声には、すごく合っていたと思う。そしてタイガースは、どうやらこの曲からレコーディングでは、自分たちで演奏するのを止めたらしい。
その理由は、レコードでは、他のバンドと差別化を計って、ストリングスを多用した華麗な音をめざしたことや、とにかくあまりの人気に時間に追われレコーディング前に新曲を練習する余裕すらなかったことなどがあるようだ。
もちろんライブでは、これらの曲も自分たちで演奏していたし、いろんな曲をカヴァーしていた。
当時は、人気者だけにテレビでもカヴァー曲まで演奏することもあり、Time Is On My Side やトッポの歌うビージーズのWords や Holidayは、おなじみだった。タイガースがビージーズの曲をたくさんカヴァーしているのは、同じレコード会社だったという営業的な意味あいも濃いのだが、トッポのイノセンスを感じさせる澄んだ声は、ビージーズのカヴァーでも一級品だった。だが、残念なことに、それらは、レコードとしては、残っていない。


 

そして7月には、夏向けのビートナンバー「シーシーシー/白夜の騎士」をリリース。A面は、ロックンロールリバイバルを意識した加瀬邦彦作のビート曲。B面は、TV「ヤアヤアヤング」のエンディングテーマにも使われたドラマティックな曲。
「シーシーシー」では、ジュリーがこうやって指を立てて"シーッ"とささやいていて見事オリコン一位を獲得。
シングルのカヴァーデザインでは、当時は、全員がにっこり笑っているようなものが圧倒的だったのに、ここでも差別化を計るためか、アイドルなのに全員の顔がよくわからないようなデザインを採用している。

8月には、野外コンサートの先駆け、後楽園球場で「ザ・タイガース・ショー」を敢行。








9月には、「廃墟の鳩/光ある世界」をリリース。共に村井邦彦作。シングルのジャケットは、某洋楽のLPのジャケットそっくりだった。「廃墟の鳩」は、ノアの箱舟をイメージさせるメッセージソングで、トッポのクリアボイスが、新境地を開いている。「光ある世界」は、なぜかイタリアのバンド、イ・プーの「ジェニファのコーヒー」にイントロのオーケストラアレンジからそっくりなのだが、なんらかの影響を受けているのかどうかは、わからない。
 
 

このころには、ライバルテンプターズのファンやいろんな人から「タイガースは、自分たちで曲が作れない」などといわれるようになっていた。それに対する答えは、タローが作曲した「青い鳥」だった。童謡のような親しみやすいメロディーの曲だ。B面の「ジン ジン バン バン」は、ジミヘンっぽいギターをとりいれたポップかつワイルドなロック。この曲は、オリコンで4位になっている。
 

そして68年11月に当時日本では、ほとんどなかったトータルなコンセプトを持ったアルバム『ヒューマンルネッサンス』をリリースした。一説によるとこの企画は、もともとこの年の9月に「旧約聖書」でデビューした同じく渡辺プロのアダムスのコンセプトを転用した(アルバムの計画もあったらしいが実際には、リリースされていない)ともいわれているが、真相は、不明。最初このアルバムは、「ヒューマンリレーション」という仮タイトルだった。
GSやエレキ=不良というイメージにクラシック=高級というイメージを付加することで、イメージアップを図ろうとしたらしいが、メンバー自身、村井邦彦、すぎやまこういちの作曲によるこのアルバムは、ビート、ガレージとは、程遠いが、この時期の日本のアルバムとしては、別の次元で非常に完成度の高いものになっている。日本初のクラシカル・ロックのアルバムなのだ。作曲・編曲の村井邦彦、すぎやまこういちのセンスの良さも光る。タイガースならではの気品あってこその作品だが、こうして王子様化されていくことで、メンバーは、ストレスをためていったのかもしれない。
クラシカルな曲が、多いが、「割れた地球」は、ジミヘン度が高いニューロック。

ちなみに音楽的完成度が高いだけに、自分たちでこれが演奏できたか疑問視する人もいるかもしれないが、実際には、このアルバムの曲をたくさん演奏したライブもやっていて中々良い出来だった。

だが、この頃が、タイガースにとってもGSブーム全般にとってもピークだった。少しずつ風向きが変わりはじめていたのだ。
 

そして69年3月5日 “トッポ失踪事件”がおきる。でもこれは、実際には、失踪では、なかった。メンバーの確執やあやつり人形的な仕事にあきあきして脱退した彼は、プロダクションが失踪を発表したとき、事務所の手であるホテルに軟禁されており、ヨーロッパへ脱出する手配も済んでいたのだ。(この真相は、すぐに当時のマスコミに発覚し、事務所側が謝罪会見をひらいている)
これについてここでこれ以上詳しく触れるつもりはないが、失踪でないからこそ、脱退後のトッポは、ティーンルック、セブンティーンに手記を発表し、以前よりティーンルックに掲載していたイラスト“EVE”は、引き続き掲載されてたのだ。またフランスへ行ってからも雑誌のグラビアに登場したりしている。

69年は、もうシンプルなビートより、より内省的なロックが求められつつあった。タイガースも69年3月25日発売の「美しき愛の掟」では、うまくアートロックをとりいれている。(このシングルのカヴァー写真では、トッポの顔がシルエットでよくわからないようになっている)

 
 

パリでのトッポ  ヒッピーっぽいサンダルを履いたシロー









トッポの後任に決まったのは、サリーの弟、岸部四郎だった。もともと音楽好きで、タイガースがアマチュアのころビートルズの公演へ行ったときも同行した彼は、タイガースが人気者になったあと、事務所の援助で、渡米していた。演奏するよりも聴くのが好きだった彼は、当時のミュージックライフなどに現地のコンサートの様子をレポートしたりしていた。
タイガースの後任は、オーディション形式で選ばれたのだが、四郎自身の言葉では、ある時、急に理由もいわすに、日本へ帰るように言われて、戻ってきたらいきなり、美容院へ連れていかれて、ヒッピーぽい長髪だったのをこぎれいにカットされ、形ばかりのオーディションでそのまま加入することになったようなので、かなり出来レースっぽい。
彼は、歌は、結構うまかったが、ギターは、まったく弾けないのに、真似だけでよいからとギターを持たされることになり、それでは、あまりにいたたまれないので、しばらくの間、タンバリンにさせてくれと頼み込んで、ギターを練習したそうだ。

タイガースの魅力のひとつは、歌ったときの音域の広さだった。サリーの低音、トッポの高音、その間に、ジュリーの甘い声がからみ、幅のひろいコーラスが可能だった。シローは、サリーの弟なのに声は、割りに高音で、その点では、トッポの後釜がつとまった。だけど ここで、なにかバンドの持っていたオーラが薄れたことは、確かだ。

シローは、アメリカにいたころ、本場のロックコンサートをまのあたりにして「GSなんてもう時代遅れだからやめたほうがいい」と手紙を送っていたそうだ。そんな彼がなんとメンバーになってしまったのだ。どこか醒めていたところがあったのかもしれない。庶民的なシローのキャラクターやかつてのようにメルヘン的な歌詞より、現実的な歌詞がうけるようになったトレンド、そしてタイガース自身が、王子様役を続けることにあきたらなくなったこともあり、彼らは、手のとどかない王子様よりも、もっと身近な若者としての顔を見せはじめていた。
ファションの上でも髪が長くなり、お揃いの衣装より、思い思いの格好をすることも多くなっている。

その後の彼らの活動を駆け足で紹介しよう。69年7月に「嘆き/はだしで」をリリース。ジュリーのソロで、事務所が、彼をソロシンガーにしたがっていたのがわかる作品。

次のシングル「スマイル・フォー・ミー」は、映画「ハーイロンドン」(これは、忙しい毎日を送るタイガースが、悪魔と取引してロンドンへ休暇へでかけ、いろんなことに出会いながらなんとか期限までに戻ってくるというストーリーで、不満のたまりつつあるメンバーへの仕事を兼ねた海外休暇的意味あいもあった作品)でビージーズのバリー&モーリス・ギブが書き下ろしロンドンでレコーディングされた。当初は、ヨーロッパのみで発売の予定だったが、ファンのリクエストが多かったのが、日本でも発売された。
次の「LOVE LOVE LOVE」は、ニューロック風愛の賛歌。シングルは、Wジャケットの豪華盤。このあと「都会」「素晴らしい旅行」「誓いの明日」の3枚のシングル、LP は、70年12月に「自由とあこがれと友情」71年2月にライブ2枚組「サウンズ・イン・コロシアム」解散記念の「フィナーレ」をリリースしている。
この71年の田園コロシアムのライブでは、「アイ・プット・スペルオン・ユー」やGFRの「ハートブレイカー」を熱演するなど、シンプルなビートからニューロックへサウンドが変化しつつあり、この数年のシーンの移り変わりの激しさを反映しているかのようだ。
 

その後のタイガースは、メンバーのソロ活動が増え、ジュリーはそのまま「ジュリー」、サリーとシローは、二人で「Sally & Shiro トラ・70619」をリリースしている。
そして彼らもまた、GSブームの衰退には、あらがうことできず、71年1月に解散した。
解散コンサートはライブアルバム「フィナーレ」として残されているが、1枚物1のLPで、各メンバーのソロを入れるために割愛された曲も多く、バンド本来の姿はわかりにくい。(そのかわりファンの熱狂は、伝わってくるが)

この後ピーは、芸能界と訣別、サリーとジュリーはスパイダース、テンプターズのメンバーとPYGを結成(事務所側は、ジュリーをソロシンガーで売りだしたかったらしいが、彼は、あくまでバンドにこだわった。これは、その後ソロになってからもオーケストラのバックで歌うのでなく自前のバンドを持ったことにつながる)タローは、若手と共にタローとアルファベッツ結成、シローは、ブレッド&バターに合流した。
 
 


 

タローさんの近況をライブから

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