TheTempters


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テンプターズは、65年に埼玉の大宮西高校の田中俊夫(ギター)、高久昇(ベース)ら4人によって結成された。名前の由来は、映画「太陽の誘惑」から。しばらくして田中のおさななじみだった大宮工業高校の松崎由治(ギター)が仲間にくわわった。この当時は、インスト中心のエレキバンドだったらしい。大宮のダンス・ホール「大蔵」のハウスバンドとなる。この大蔵というのは、大蔵映画が映画館の横に併設していたダンス・ホールだった。そこへやってきて飛び入りでリトル・リチャードの「マネー」を歌い、いつのまにかメンバーになってしまったのが、萩原敬三、後のショーケンこと萩原健一だった。彼は、与野出身で、都内荒川区の私立聖橋中学3年だった。萩原の実家は、魚屋だった。彼は、中学生になってから、家の仕事を手伝い、アルバイト代として毎月5000円程度をもらっていたらしい。これは、当時の中学生のお小遣いに比べるとかなりの金額で、最初は、これでラジコンを買ったりしていたらしいが、そのうち友人にビートルズを聴かされて、音楽にのめりこむことになった。

この後もメンバーのいれかえがあり、ドラムの市川がやめ代わりに、弟分のジュニア・テンプターズの大口広司が参加することになった。ちなみにこのジュニア・テンプターズ(通称 ジュニテン)には、後のエム、ゴダイゴの浅野孝己やモップスの三幸太郎も在籍していて大蔵をスタートにテンプターズ同様、新宿、恵比寿、銀座のディスコ、ステップ・ヘヴンに出演していた。
テンプターズはステップ・ヘブンでは、No.1のバンドとして知られるようになっており、彼らの演奏の噂を聞いてやってきたのが、スパイダースのリーダーで自分たちのプロダクション、スパイダクション(掘プロ系列)を経営していた田辺昭知(これが、現在の田辺エージェンシーのルーツ)。67年5月にスパイダクションと契約することになった。これが、テンプターズのプロとしてのスタートになる。この時期のテンプターズには、他にもいろんなプロダクションからスカウトの声がかかっていた。

またスパイダクションが、元々スカウトしようとしていたのは、メンバー全員が、スパイダースのファンでファンクラブにも入っていたという京都のファニーズだった。東京へ出てくるように声をかけていたようだが、結局彼らは、大阪で、内田裕也にスカウトされて渡辺プロへ所属することになる。これは、いうまでもなくタイガースだ。そのタイガースの対抗馬としてスパイダクションへ入ったテンプターズが、タイガースと並ぶ二大人気GSになるのだから世の中おもしろいものだ。
 このころ彼らは、埼玉のストーンズとも呼ばれていた。その後の彼らのオリジナル曲でもこの黒っぽいフィーリングが一つの持ち味となっている。

プロになる頃には、高校生だった萩原と大口は、学校をやめてプロに専念することになったのだが、当時の雑誌のプロフィール等では、学校へ通っていることになっていて、楽屋で勉強している姿などがグラビアになったこともある。また当時、表向きリーダーになっていたのは、松崎だが、実質上のリーダーは、田中で、彼が、SHYで、フロントに立つことを好まなかったのでこういう形になったようだ。

プロとしての初仕事は、池袋のジャズ喫茶「ドラム」でのライブだった。この時の対バンは、アウトローズ、つまり後のビーバーズだった。6月13日には、当時の人気番組「ヤング720」に出演、松崎が作詞・作曲したオリジナル「忘れ得ぬ君」を演奏した。そして10月にファーストシングル「忘れ得ぬ君/今日を生きよう」でデビューした。同じく10月公開の松竹映画「濡れたあいびき」(田辺昭知・加賀まり子主演)では、野外音楽堂(多分横浜ではないかと思う)でこの曲を演奏する彼らのういういしい姿を見ることができる。またこの映画での演奏は、途中で場面が変わるものの演奏自体は、シングルよりロングヴァージョンなのも貴重。ぜひビデオ化してほしいものだ。このデビュー作A面「忘れ得ぬ君」では、松崎が、自ら作曲したこの曲を歌い、ショーケンは、ブルースハープを担当していた。ちなみにこのデビュー当時のショーケンのヘアー・スタイルは、スモール・フェィセズのスティーブ・マリオットを意識したものだ。この曲は、8万枚を売り上げる好調なスタートとなり、続く第二弾68年3月発売の「神様おねがい」は、ショーケンがひざまづいて神様に祈るポーズも受けてオリコン第二位のヒットとなった。こうしてテンプターズは、タイガースと共に、アイドルとしてのトップGSの双璧となった。そしてGSブームも絶頂を迎える。同年1月公開の日活映画「星影の波止場」では、曲の一部だが、ジャズ喫茶で、「忘れ得ぬ君」、舟の上で(銀座付近の運河か?)「テルミーモア」を演奏するシーンがある。店名がヤングメイトとなっているので、モデルは、ヤングメイツらしい。(ここやACBは、当時の映画に、よく出てくる)
ブレイクした彼らの人気がどれだけすごかったかを示すこんなエピソードがある。今では、信じがたいが、当時は、ローリング・ストーンズは、日本では、まださほど売れていなかったのだが、テンプターズが「自分たちの尊敬するバンド」としてとりあげたことから、急に売上がのびたことがあったのだ。雑誌のグラビアにミック・ジャガーのピンナップが「ショーケンの先生」というキャプション付きで載っていたこともある。
そしてプロマイドの売上でもそれまで独走していたタイガースを追いぬき1位になっている。アイドルとしてのテンプターズは、貴公子的雰囲気を売り物にしていたお行儀のよいタイガースに比べると(彼らも元々は、ストーンズが大好きなロック少年たちだったのだが)ちょっと不良っぽく、男の子のファンも多かった。もっともこれだけの人気バンドでありながら、彼らは、かなり後までそれぞれ埼玉の実家に住み、東京まで電車で通っていたらしい。日曜日には、大宮や川口の駅にメンバーの姿を人目見ようとファンが集まるのが恒例となっていた。

第三弾シングル「エメラルドの伝説」は、更なるヒットをねらった村井邦彦の作曲のオーケストラ入りのドラマティックな曲で、萩原は、これが気に入らずふてくされてレコーディングしたという。しかしおとぎ話のようなロマンティックな曲の向こうから、ショーケンの不良っぽいところが、見え隠れするのもこの勢いの中では、かえって魅力的だった。そして松崎のあざやかなスパニッシュギターが曲をもりたてていた。また自作以外の彼らの曲の歌詞は、この曲を含め、なかにし礼が書いていたが、彼の書く陰りのある詞は、テンプターズに似合っていた。テンプターズは、ちょっと陰りのあるアイドルだったのだ。このシングルのカヴァーになっている胸に花のアップリケがついた衣装は、有名で当時、これを真似した女の子用のワンピースまで販売されていた。(だけど本人たちは、「こんな女みたいな衣装馬鹿馬鹿しくて着てられねえや」と思っていただろうなあ)
ステージでは、ショーケンが熱狂的に歌い、この衣装のベストを脱ぎ捨てることもよくあった。
 
 
 
 


ヤング720は、GSブームの頃TBS系でウィークディの朝7時20分から放送していた”ヤング”のための情報や音楽の番組。朝からGSのライブが見られるというぜいたくな番組?で、小学生から大学生まで見ていた。演奏も当時多かった口パクでなく本当にやっていた。ただし当時は、多くの人が生放送だと信じていたが、実は、ビデオだった。しかし残念ながら1本もビデオは残っていない。(60年代は、ビデオそのものが非常に高価でテレビ局でも使いまわししていたことと、当時は、保管したビデオに対して税金がかかったので、GSに限らず映像が残っているものは、とても少ない)誰かテープで録音したという方いませんか?
GSの定番、バイオリンベースとセミアコのギターを使ってますね。 
 
その後も好調な活動を続け、68年6月にファーストアルバムをリリース、69年3月には、主演映画「涙のあとの微笑を」が公開された。この映画では、ほぼ同じ時期にリリースされた名作「5−1=0」収録の曲をいろいろと聞くことができるので貴重だ。(ちなみに神様役でアニキ分の堺正章がでているのが、ご愛嬌)また、ショーケンがピンキーとキラーズの「恋の季節」を物まねするシーンもある。

テンプターズによる自作の曲は、ほとんど松崎が、作詞・作曲していて、スパニッシュギターからラーガサウンドまでとりこんだ、彼の書いたメロディは不思議な個性がある。彼が作詞に使う言葉の選び方も独特だ。プログレっぽい大作「宮殿に続く長い橋」には、「年貢」なんて言葉もでてくる。ラスト・シングルでも昔を追想するあまりあ”うさぎ追いしかの山”と「ふるさと」の1節を挿入してしまう。こんな歌詞も松崎が、思い入れたっぷりに泣きながら歌うと、すごく説得力があるのだ。

だが、テンプターズの魅力は、なんといっても アイドルでありながらも ロックが本来もつ“ヤバさ”、Beatが喚起するセクシャルなエモーションをあわせ持っていたことだろう。当時のファンだった、少年少女たちは、おそらく意識してはいなかっただろうが、そこにあるエナジーを感じとっていたはずだ。(これは、60年代のガレージ・パンクにも通じる)

68年10月に来日したモンキーズのピータートークは、大阪で、テンプターズの公演を見ている。当時の雑誌の記事によればピーターがぜひとも日本のバンドの演奏を見てみたいとテンプターズのマネージャーへ連絡してきたとある。当時の記事には、作り話も多いので、これは、本当に彼が希望したのか、プロモーションとして企画されたのかよくわからない。(実は、当時は、モンキーズの所属するRCAとテンプの所属するフィリップスは、どちらも日本ビクターが所有していた。その関係でテンプターズもしばしばモンキーズの曲をカヴァーしていた。当時は、同じレコード会社の洋楽のヒットをGSがカヴァーしたり、売りだしたい洋楽をGSにカヴァーさせて相乗効果をねらうということがよく行われていたので、宣伝的意味が大きいような気がする)とにかくピーターは、大阪フェスティバルホールで公演直前のテンプの楽屋をおとずれ、彼らとあいさつしたあとステージを見学した。(ファンの混乱をさけて客席ではなく2階の監事室から見たようだ)
翌日から同じ大阪フェスティバルホールでモンキーズ自身が公演を行った。
 
 
 

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69年7月には、ライブアルバム「オン・ステージ」をリリース。1枚ものなので普段のコンサート全部は、収録できないためオリジナルは、ほとんどカットされ、本来の黒っぽいテンプターズが爆発する洋楽カヴァーな内容となっていて当時のライブでのワイルドな演奏が聞ける。ライブでは、ショーケンが、ステージをかけまわり熱狂的に歌うのも魅力だった。このほか残念ながら録音は、残されていないが、ショーケンが目隠しをして狂おしく歌うことで有名だった「孤独の叫び」、「バック・イン・ザ・USSR」、松崎の「ホワイト・ルーム」や「サテンの夜」「マイ・ジェネレーション」などをカヴァーしていた。69年3月リリースのシングル「雨よふらないで」は、萩原作詞・松崎作曲のエレガントな曲。これは、もともとアルバム「5−1=0」に収録されていたが、シングルは、別ヴァージョンになっている。今思うとこのあたりが、音楽的な転換期となっているようだ。

そのほかライブでは、ゾンビーズやキンクスのカヴァーもやっていたが、これらがレコードになっていないのは、本当に残念!

その後日本人初のメンフィスでの録音となるアルバム「インメンフィス」を69年12月にリリース。これは、バンドとしてのアルバムというよりもショーケンのソロアルバムと考えたほうが良い。たった1年の間にあの熱狂的なGSブームに陰りが生じ、彼らをとりまく状況が変わってしまったのだ。このメンフィス録音も旧来のGSから脱皮しようとする試みの一つだったのだろう。
この渡米の時、一人でCAへ行った大口は、フィルモア・イーストでヴァニラ・ファッジのライブを見ている。そしてあるクラブで偶然ライブを見たフランク・ザッパに声をかけられ、なんとそこでセッションがはじまったという。だけどこれは、また別の機会に・・・

こういう変則的な形のレコーディングになったも、バンド自身の結束力がにぶることはなかった。しかしその後もGSブームの衰退と共にバンドの人気も下降し、最後は、主な仕事場は、デビュー前と同じくジャズ喫茶になってしまったようだ。(だがこの頃ステージを共にしたこともある、某バンドの元メンバーは、後期のテンプターズを「男がみても惚れるかっこいいステージだった」と語っている)

70年末になると仕事もめっきり減り、12月にサンケイ小ホールで行ったコンサートが結果的に最後のコンサートになった。
タイガースのようにお別れコンサートをすることもない寂しい終わり方だった。翌71年の1月のウエスタンカーニバルにも名前が挙がっているが、実際に出演したのは、ショーケンだけで、タイガースとスパイダースのメンバーをバックに後にPYGのレパートリーとなる「I Want To Take You Higher」(スライ&ファミリー・ストーン)を歌っている。

解散後、萩原と大口は、テンプターズ、タイガース、スパイダースのメンバーを選抜したスーパーバンドPYGに参加した。
松崎は、東京キッドブラザースの音楽監督を務め、51年には、アイドルバンド、ドルフィンに「友達から恋人に」というポップな曲を書いたが、その後引退。(ドルフィンはジャニーズJR出身でホリプロからデビュー)
萩原は、俳優、歌手として活躍、大口は、アラン・メリルウォッカ・コリンズを結成した。大口は、近年は俳優としても活動している。


 
 
 
 

テンプターズは、その後一度も復活することなく封印されたままだ。

 
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GSブーム絶頂を担ったテンプターズ、タイガースと彼らの先輩にあたる第1世代のGS、スパイダース、ブルーコメッツとのちがいは、後者が、それまでの芸能界の枠の中にあったプロのバンドの延長線上にあり、メンバーを入れ替えながらビーとコンボの形を図ったものであったのに対して、テンプやタイガースは、ベンチャーズを聞いてエレキギターを手にし、ビートルズやローリングストーンズを聞いて夢中になり、自分たちもバンドをはじめたロック少年たちだったということだ。
今では当たり前の仲間同士でバンドを組んで、才能があればプロになる という形がまだこの頃は、あまり一般的でなかった。プロになりたければ、プロとして活動しているバンドに弟子入りしたり、ボーヤ(今でいうローディだが、あくまで弟子としての修行の一環)にしてもらってチャンスを伺うということもよくおこなわれていた。

だが、テンプは、バンドを結成して、人前でみんなに演奏を聞いてもらいたくてジャズ喫茶やディスコへ出演しているうちにプロにスカウトされたのだ。彼らの目的は、プロになることよりもまず好きな音楽をやることだったはずだ。そして若くて右も左も知らないまま、スタッフですら予測しなかったほどの熱狂のGSブームへまきこまれてゆくことになる。

そしてそのブームの熱狂のあまり今度は、いろんなプロダクションが、ジャズ喫茶などで演奏しているアマチュアを片っ端からスカウトしてどんどんGSとしてデビューさせた。この粗製濫造がGSブームの失速を招いた原因の一つでもある。


 

CDの紹介(各2000円)

*ザ・テンプターズ・ファースト・アルバム(TECN-20441)
ダブルウイナーのデビュー曲「忘れ得ぬ君」(Paint it Blackにインスパイアされた冷気のただよう名曲)「今日を生きよう」
シングル「神様お願い」早くも松崎節が炸裂するオリジナル「涙を笑顔に」、大口の歌が思いの他よい出来の「バーディ・トールド・ミー」、「ストップ・ザ・ミュージック」「ブーンブーン」などのカヴァーの他 松崎が、作詞・作曲した「いつも君の名を」は、シタールを使った東洋的な音階が効果的な佳曲。 初期の彼らならではの 瑞々しい魅力がいっぱい。
ブックレットには、デビューシングルと同じセットで撮った別ショットの写真(LPでは公開されていなかった)がカラーで見られるのも嬉しい。

*5-1=0/ザ・テンプターズの世界(TECN-20442)
全曲オリジナル。ヒット曲の「秘密の合い言葉」から、海外でも人気の「この胸に抱きしめて」「テルミーモア」プログレにも通じるクラシックなオーケストラ入りの「宮殿に通じる長い橋」と松崎が、独自の世界を展開している。
このアルバムは、当時人気を二分したタイガースの「ヒューマンルネッサンス」と対比されることが、多かったのだが、あっちは、すぎやまドラクエこういち先生を中心にしたプロの作曲家によるもので、当時こういうプロの作曲家の曲を歌うGSも多かった中でシングルの一部を除き自作でこれだけのグレードのアルバムを作ったことは、もっと評価すべきだと思う。特に作詞・作曲、歌、ギターからエレクトリック・シタールまで松崎が活躍。

このアルバムは、数多くあるGSのアルバムの中でも名作の一つ!村井邦彦の作曲、アレンジのセンスの良さにも注目。
5人のうち一人でも欠けたら0になってしまうという意味の このアルバムのタイトルは、大口広司が考えたもの。

*ザ・テンプターズ・オン・ステージ(TECN-20443)
ストーンズナンバーをはじめカヴァーが中心。ジョン・リー・フッカーのブルーズ、「モーディ」が意外に良い出来で驚かされる。埼玉のストーンズと呼ばれた彼らの黒っぽい演奏が聞ける。日本だけヒットしたブーツウォーカーの「ジェラルディン」、デル・シャノンの 名作「太陽を探して」も好カヴァー。「キープ・ミー・ハンギング・オン」など新しい曲にも挑戦しているが、全体のトーンは、60年代らしい哀愁とビートナンバーが中心。途中のオルガンのミストーンがそのまんまなのも生の臨場感がある。(ここでは、あまり上手いとはいえない田中のオルガンだが、その後練習を積んで、後期にはかなり上手くなっている。)最後にオリジナルの「涙のあとに微笑みを」を演奏すると、ファンも思わず合唱。女の子の歓声につつまれて貴方は、いつのまにかコンサート会場にタイムスリップしているかもしれない。
このライブは、新宿厚生年金会館でのファンクラブのためのコンサートからのもの。第2部では、プレゼントコーナーというのもあり、松崎は、スカーフと手製のベルト、ショーケンは、三島由紀夫の本を数冊プレゼントとして提供した。
 

*ザ・テンプターズ・イン・メンフィス(TECN-20444)
日本人初のメンフィスレコーディング作品。当時 アルバムまるごと海外録音したものは、ほとんどなかったのではないだろうか。バッキングは、あっとおどろくデキシーフライヤーズその他今思うと豪華メンバー。
ショーケン以外のメンバーは、一部で松崎がギターを弾いている以外は、参加していない。GSのアルバムと捉えるよりも、GSからロックへの過渡期ならではのユニークな作品。おすすめは、「エブリィバディ・ニーズ・サムバディ」。参加していないメンバーも含めてみんなでディズニーランドで写っている裏ジャケットの写真がちょっと哀しい。
(かつて「萩原健一・原点」というアルバムがあったが、これは、彼のテンプターズ時代の曲から編纂したベストアルバムで、半数がこの「イン・メンフィス」からの選曲だった。ショーケンのソロ・アルバムとして考えればこれは、これでおもしろいものだが、バンドのほかのメンバーにとってみれば複雑な作品でもある)

*ザ・テンプターズ・アンコール(TECN-20445)
解散と同時に発売されたラストアルバムで後期のシングルと未発表だった作品を収録。というとナンだか残りものを適当に集めただけのように思えるかもしれないがこれが、思いのほか良い内容なので、見落とさずぜひ聞いてほしい。
オン・ステージでは、ミストーンがあった田中のオルガンがびっくりするほど上手くなっているが、本人による演奏。彼はすごく努力家だったそうだ。
シングル曲が、バンドサウンドからフルオーケストラへと向かってゆくなかで、未発表曲では、松崎のオリジナルをバンドだけで録音していてソリッドな音が聞ける。
 今回のCDには、更に松崎由治・作詞作曲の未発表曲「走れ若い命」、「理由なき反抗」の未発表オリジナル・ヴァージョン、ワイルド・ワンズのカヴァー「愛するアニタ」(実は、これがすごく良い出来)の計3曲をボーナス・トラックとして追加!


彼らは、ショーケン(萩原健一)のいたアイドルバンドというイメージが強いかもしれませんが、(それは、もちろん事実ですが)多くの曲を作詞・作曲した松崎由治を核にした独特の音楽性をもっていて、アイドルGSという先入観で見落とすと大変な損失だと思います。 ショーケンの歌も 後のソロシンガーのときとは、ちがった素直な歌が別の魅力となっています。(とはいえ、彼の歌には、アイドルにはおさまりきれないスケールの大きさがあり、ステージを走りまわり、観客を挑発することも)
演奏は、オーケストラ、ストリングス以外は、自分たちですべて演奏。(ただし「ベイビーチュチュ」でのピアノは、プロデューサーの本城氏が担当。)バンドアレンジも基本的に自分たちの手によるもの)それだけに30年たっても失われないリアリティが伝わってきます。
 

ぜひこの機会に彼らのクールな音をCDで確認してください。
 
 

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