モッチンへ突撃インタビュー(99年12月改訂版)
質問 1 「カーナビーツはどうやって結成されたのですか?」

モッチン:僕が14ー5才の頃、横浜のレッドシューズという店に出ていてそこでフリーランサーズというバンドにスカウトされたのだけど、フリーランサーズの本来のメンバーはもうあまりいない頃で、すぐにやめてしまった。それで元スイングウェストにいた次郎くんが、かっこよかったので声をかけていっしょにバンドをやることにした。そして名古屋から越川兄弟と臼井くん、ベースの岡くんを呼んできて バンドを結成、1週間もたたないうちにレコードレビューをすることになりました。 #*1

メンバーの顔がわからない若者の皆さんへ

左から 越川ヒロシ、岡忠夫、臼井啓吉、喜多村次郎、アイ高野

質問 2 「カーナビーツ時代は、どんな曲をカバーしていましたか」
こういうわけで 自分たちの持ち歌がなく ボーカルは、僕と臼井くんしかいなくて、臼井くんが名古屋時代歌っていたのは、パットブーンの「砂に書いたラブレター」とか全然ジャンルのちがうのをやっていた。僕は、アマチュア時代からゾンビーズとかハーマンズ・ハーミッツとかラヴィン・スプーンフルの曲を歌っていた。臼井くんは、途中から これじゃヤバイと思って向こうのグループの曲を「イン・マイ・ルーム」あたりからはじめた。だけど アンディ ウィリアムズの「恋はリズムにのって」とか やっぱ 変な人だった。(^^;)

でも臼井さんのおかげでワイルドな声と俺のコーニーな声がまじってバランスがとれたと思う。カーナビーツは、全員歌っていてファルセットは喜多村次郎、 選曲も次郎くんが新しい曲をどんどん担当、 僕は「受け」担当みたいな感じでした。

質問 3「当時一番うまいと思ったGSは?」

スパイダースとか上手いと思っていたけどプロになって レコード聞いたら、ほんとの事言って田辺さんより自分が上手いと思った。やっぱりみんな上手い上手いといっていたゴールデンカップス。あとは、売れないグループが結構上手かった。後半のダイナマイツとか。

上手いといっても全然ジャンルがちがう、ブルコメとかビレッジシンガースとかは、 僕の好きキライがあってああいうのは(音楽的には)ダメだった。

質問 4「仲の良かったGSは」

当時は、GS同士は、敵同士という感じで管理下におかれてあまりおつきあいはできなかった。一番近いところにいたのは、ジャガーズといっしょにデビューしたので、内緒で仲良くしていて信ちゃんが俺の家に寝泊まりしたりしていた。ゴールデンカップスは、後から出てきたのだけど、コーチャン(エディ藩)かな。

質問 5「ゴールデンカップスに入ってどうでしたか」

ゴールデンカップスに入ろうと思って入ったのではなくて、カーナビーツ解散して、日本の音楽が変わってきて日比谷の野音がはじまった頃、ハードロックが好きで、ハードロックといってもジェスロ タルみたいなのも好きだった。その頃エディ藩(コーチャン)が、僕をエディ藩グループ(柳田ヒロ、エドモンド・フォルトゥノ)にさそってくれた。エドモンド・フォルトゥノ(スーナーズのエディ)が、大麻取締法でつかまって後任をさがしていたんだ。僕にこんなむずかしい音楽ができるかなって思ったけど エディは、僕のアマチュア時代を知っているから「ユーは、カーナビーツではうそついていた。本当はいいドラムがたたけるのに」って言ってくれて参加、そのままゴールデンカップスにも入った。 #*2

質問 6ゴールデンカップス最後のライブ 沖縄で火事にあったことについて

ゴールデンカップスは、曲が「コミュニケーション ブレイク ダウン」とかツェッペリンとかやっていて対バンは、紫のドラムになったチビがリーダだったバンド キャナビス。
僕のドラムを使いまわしにすることにした。ニューイヤーズイヴの時に ディブが「長い髪の少女」をやろうと言って「えーっ こんなのやらなくていいよ」「でも一応カップスだからさ」とやる事にしたけどお客は、外人ばっかりで長い髪の少女なんて誰もわからなかった。ベースが譲ちゃん(柳ジョージ)で、エディで俺がドラムでキーボードは、ジョン山崎で全然ちがうスタイルで長い髪の少女をやった。ディブが「どうぞ」って歌った時、ジョーちゃんが、僕の後ろに引いてあった赤いカーテンのあたりが 「アイなんか臭くないか」といって カーテンをめくったら俺の後ろから火が襲って来た。よっぱらっている外人とか兵隊がいっぱいいたんで、そこに大きな声で「Fire!Fire!」って言って火事を知らせた。ところが、 Fireという曲があったので、それをやるのと勘違いして客席から「Comon」と声がかかった。

火事にあってドラムが焼けて、ドルだったギャランティがまだもらってなかっただけど消防士が(消火の時にそのお金を)踏んでしまってダメになり、なけなしで帰るという悲惨な最後でした。 #*3



*1

フリーランサーズは、もともと清原タケシのバックバンドだった。その後メンバーが代わって、伊藤(gtr)、杉田(Vo、gtr)、佐々木(drms)となっています。

フォノグラムから発売されていたカーナビーツのCD(現在廃盤、テイチクから新編集のCDが入手可能)に紹介されているドラマチックな結成ストーリーは、当時の音楽誌からの引用だが、原文はかなり脚色されていたとの事。 この中に フリーランサーズが解散になり 後にマネージャーとなる三池さんのお店で「おやじ酒をくれ」といって入ってきたというくだりがあるが、実際は、その頃のモッチンは、まったくお酒を飲めなかったとのこと。越川ひろしの兄は、もともとバンドをやっていたが、カーナビーツでは、マネージャーを担当。テイチク盤では、ライナーも新しくなって音もよくなっている。
喜多村氏によれば、元々は、モッチンと二人で、マッコイズのようなビート・バンドが作りたかったらしい。

#質問2
「好きさ好きさ好きさ」は、もっちんがアマチュア時代から歌っていた曲で、当時 音楽先進地であった横浜で知った曲のようです。この曲は、モッチンがスティックを客席に向けて「おまえのすべて」と絶叫することで人気を得たのですが、決して彼のソロだけでなくバンドとしてのハーモニーもうまくでていてゾンビーズのオリジナルよりずっといい出来だと思います。97年に英国で発売されたゾンビーズのボックス「ゾンビーヘヴン」ライナーの「I LOVE YOU」のところにもカーナービーツがこの曲をヒットさせたことに触れられている。

またアマチュア時代は、英語で歌っていたこの曲だが、これに日本語の詞をつけたのは、江戸っ子訳詞家漣健児(草野昌一)。彼は、GS以前の和製ポップスの訳詞をたくさん手がけた、日本語をロックのビートへのせる事に関しての草分けともいえる人です。「I LOVE YOU」を「好きさ好きさ好きさ」と訳す彼の言語感覚は、他を圧している。この曲の訳詞は、スタジオでバンドの演奏を聞きながら書き上げたそうだ。

とはいえ、割りにシンプルな歌詞なので ライブでは、11番は日本語、2番は英語という歌いかたもなかなかよい。
*2

エディ藩は、69年春に、自分のバンドを作るためゴールデン・カップスを脱退。それに代わってルイズ・ルイス・加部(加部正義)が、カップスのベーシストからギタリストになった。ギタリストとしての彼の演奏は、この時期のアルバム「ゴールデン・カップス・リサイタル」で聴くことが出来る。一方69年9月の「第一回日本ロックフェスティバル」には、エディ藩グループ(エディ藩、エディ・フォルトゥノ、柳田博義<柳田ヒロ>、ケネス伊東)で出演している。

日比谷野音でのロック・コンサートの端緒となったのが、69年9月22日に成毛滋らが企画した10円コンサートだった。これは、ウッドストックの洗礼を受けた成毛が友人と日本でも野外でフリーコンサートをやりたいと考えたものだった。最初は、無料でやるつもりだったが、ある人のアドヴァイスで「無料だとチケットを持っていても来なかったり、途中で帰ったり、する人も出るから10円でもいいから料金をとったほうが、ちゃんと聴いてくれるだろう」というアドバイスがあったからだという。
当日は、小雨で、はじまるまでどうなることか関係者一同心配したようだが、そんな不安もふきとばす熱気で、このはじめての試みは、成功した。この日、仕事が入って参加できなかったゴールデンカップスだが、日比谷から程近いジャズ喫茶での仕事だったので、その休憩の合間を縫って、デイブとミッキーがかけつけ1曲演奏している。

モッチンは、70年 1月から エディ、ケネス伊東(ベース)と共に カップスへ加入した形になっているので、彼がエディ藩グループとして活動した時期は、ごく短かったようだ。 このエディとモッチンが参加した新生ゴールデンカップスのデビューは、同じく日本ロックフェスティバルの第2回(1月6日)だった。これは元々の予定では、1月7日にエディ藩グループとして出演するはずだった。またデイヴ平尾・ミッキー吉野グループも出演する予定だったが、両者が合体してゴールデンカップスに戻ったらしい。
また同じく出演予定だったダイナマイツが、事務所の契約切れとともに69年末に解散したので、出演しなかった。当時は、GSからロックへの過渡期にあたり、パーマネントなバンドでなくセッション、ユニット的なものも多く、メンバーが流動的なバンドが多い。
このときに出演したほかのバンドは、パワーハウス、エモーション、エム、ハプニングス フォー、リッキーと960ポンド、宮間俊之とニューハード、岸部おさみ グループ(実質は、タイガース+ゲスト)成毛茂グループ、内田裕也とフラワーズ、サウンド・リミテッド(猪俣猛)、陳信輝グループ、麻生レミ オールスターズ、エル・ソタノ、石川晶とカウント・バッファロ&ザ・ジャズ・ロック・バンド、モップス、沢村和子とピーターパン、ズー・ニー・ブー。この日本ロックフェスティバルというのは、NMM(現在のミュージックマガジン)主催の意欲的なニューロックのイベントだった。
 
 
 

*この時期の活動状況をご存知の方、ライブを見た方は、ぜひ ご連絡下さい。

#質問6

*3

モッチンのいた時代のゴールデンカップスは、もはやGSでなくロックバンドとして考えるべきだが、当時のレパートリーは、ホール・ロッタ・ラブ、喜びの世界、ベガーズファーム、ジェフズ・ブギなど カバーが多い。
70年5月発売のシングル「にがい涙」は、もともとデイブ平尾作詞、エディ藩作曲で「今の俺さ」というタイトルで演奏されていたが、当時の話題の作詞家松山猛の補作詞を得てタイトルを変更して発売された。
これは、当時彼らが傾倒していたザ・バンドの「怒りの涙」に対して捧げた作品ともいえる。

一方71年に発売したアルバム「フィフス ジェネレーション」は、全曲英語で、「怒りの涙」を除いてオリジナルの意欲作。モッチンのソロも聞けるが、ライナーのクレジットにミスがあるので注意。
またこの時期のライブ録音としては、モップスや後期フラワーズといっしょのアルバム、『ロックンロールジャム』がある。オリジナルの「ミッキー」というミッキー吉野作曲の曲は、当初「ブーブー」というタイトルだった。意味は・・・おわかりですね。

このころのロックコンサートは、日比谷野音の10円コンサートのように営利目的というより 、GSのようにやらされるのでなく 自分たちでやりたい曲をやるという目的が大きく 結果的に金銭的に維持するのが困難になったバンドが沢山あった。カップスの活動の場は、このようなロックコンサートとジャズ喫茶、ディスコ等であった。またテレビよりもスタジオライブで何曲も演奏できるラジオへよくでていたらしい。

ゴールデンカップスは、71年をもって解散。その後 契約の残っていた沖縄へ演奏旅行(12月24日から72年1月3日までの予定) そのステージで火災にあい 全員無事だったものの楽器も全部焼失しての劇的な最後となった。火事でバンドの最後を迎えるなんてまるで小説のようですが、当事者にとっては、たまったものではなかったことでしょう。

なお東京最後のライブは、71年12月17日 新宿ニューACB ここでバンドとしての終了を宣言した。

米軍基地がたくさんあった沖縄は、本土では、見られないアメリカの音楽番組をTVで放送していたり、レコードも入手しやすく 本格的なバンドがたくさんあったようだが、残念ながらレコード化されていない。(地元のレーベルではリリースされているかもしれないが)これらに関する情報もご存知の方ぜひご一報ください。

更に続く 質問7ー16 おもしろいエピソード に注目!

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