BLUE IMPULSE

このページは、ブルーインパルスのリーダー、湯村さんに伺ったお話と資料を元に再構成しました。なお本文中では、全員敬称略にさせていただきました。

ブルーインパルスは、68年10月にダブル・サイド・ウィナーのシングル「太陽の剣/夜明に消えた恋」でRCAレーベルの日本人アーティスト第一号のひとつとしてデビューした。このデビュー発表の記者会見は、当時のヒルトン・ホテル(現・キャピタル東急=ビートルズも泊まったステータスの高い場所だった)で開かれ、新レーベルのRCAが彼らに期待をかけていたことがわかる。

もともとブルーインパルスは、ダックスという名前のセミ・プロバンドで、横浜や東京のジャズ喫茶では、結構知られた存在だった。北海道で結成されたベガーズ(湯村寿明、長谷幸也在籍)が名古屋のジャズ喫茶“温泉パレス”に、出演していた時に、対バンになったことがあったのが茨木県土浦出身のザ・シャイナーズだった。この2バンドは、それぞれキングレコードのオーディションを受けた。ちなみにキング・レコードのオーディションを受ける直前にヴォーカルの長谷は鎖骨を骨折しながらも、添え木を当てて、ステージをこなしオーディションに挑んだという。このオーディションでは、バンドとしては、合格レベルに達したものの、すでにキングには、バニーズとフォー・ナイン・エースがいてそれ以上のバンドは、今のところ必要ないと残念ながら契約には、到らなかったようだ。その後、ベガーズは、解散。長谷は北海道に帰り、湯村は、東京でぶらぶらしていた。そしてオーディションに立ち会ったキングレコードのディレクターに、偶然会った湯村は、ハッパをかけられ、新しいバンドを作ることにして、長谷、そしてシャイナーズの大越反二(ドラムス)、萩谷清(サイド・ギター)、矢口隆(ベース)に声をかけ、ダックスが結成された。

ダックスは、ダニー飯田の事務所に所属していて、当時のスタイルは、黒のスリムのジーンズに、いわゆるスカジャンのような背中に刺繍の入ったジャンパーを着て、編み上げブーツを履き、髪も長髪で、ブルーインパルスとは、かなりちがうイメージだった。全員身長が高く、並んで歩くとかなり壮観だったようだ。
横浜のピーナツにもよくでていてカーナビーツがヒットさせる前からゾンビーズの「I LOVE YOU」も演奏していたそうだ。(当時の音が残っていたらいいのですが・・聴いてみたかった!)
 

ダックスとして1年ほど活動したあと、事務所をジャガーズと同じエコー・プロダクションに移籍、そしてRCAからデビューすることになり、名前もブルー・インパルス(これは、当時有名だった自衛隊のアクロバット飛行のチームの名前に由来。飛行隊のブルーインパルスは、64年の東京オリンピックで空に5色の飛行機雲で、五輪を描いたことでも知られていた)と改名した。一部にブルーインパルスは、写真で見るとメンバーがみんなそっくりに見えるといわれているのは、顔が似ていたというよりも、みんな同じヘアー・スタイルにさせられたのが原因のようだ。

RCA第一号ということで、デビュー作の「太陽の剣/夜明に消えた恋」は、当時の売れっ子作家コンビ、なかにし礼と村井邦彦が作詞・作曲。同じような光栄に浴したのは、CBS SONYの第一号だったアダムス
の例がある。

このシングルは、両面ともメンバー自身が演奏、「太陽の剣」は、オーバー・ダブした勇壮なホルンが実にドラマチックで、効果的だ。この曲は80年代にネオGSのヒッピー・ヒッピー・シェイクス、「夜明けに消えた恋」は、同じくファントム・ギフトがカヴァーしている。録音は、当時新しく移転したばかりだった青山のビクター・スタジオで行われた。

デビューに先だって、彼らは、ポニーズと共に、モンキーズの日本公演のサポート・バンドを勤めた。
当時のラジオで彼らがモンキーズの「君といっしょに」をカヴァーしたものが放送されたこともあるが、これは、ラジオ用にレコーディングされたらしい。
 

ジャガーズと同じ事務所ということで、いっしょに地方へ行ったり、同じステージに立つこともあり、湯村が最初に使ったギターは、ジャガーズの沖津から譲り受けたオレンジ色のグレッチだった。この他彼は、テレキャスターを使い、アンプは、TEISCOを二台、サイド・ギターの萩谷(エピフォンのセミアコ)とベースの矢口も同じくTEISCOのアンプを使っていた。

当時のライブでは、ローリング・ストーンズの「タイム・イズ・オン・マイ・サイド」や「サティスファクション」、
キンクスのナンバーなどをレパートリーにしていて、派手なアクションで熱狂的な演奏をしていた。出演していたのは、銀座ACB,新宿ACB,ラセーヌ、ドラム、御徒町東京 など。昼・夜と公演があり、また昼と夜で別のジャズ喫茶へ出たりと、結構忙しいスケジュールだったようだ。最初は、ボーヤ(今でいうローディ)もいなくてメンバー自身が、楽器やアンプを運んでいて大変だったが、後からは、無給でもいいというボーヤ志願の若者たちも集まり、最盛期には、ボーヤが8人いたこともあるという。そして新加入のボーヤに対するお決まりの儀式は駒沢公園の池へ投げ込むことだったという。この頃が、一番大変だったけど、メンバーにとって楽しい時代でもあったようだ。ファンは女の子の方が多かったが、楽屋まで来る熱心なファンは、男の子(きっとギター少年だったのでしょう。)の方だった。
当時ブルーインパルスは、池袋で合宿生活を送っていたが、日曜の朝などは合宿所のまわりを女の子が取り囲んでいたそうだ。
 

期待をかけた「太陽の剣/夜明に消えた恋」は、オリコンの54位につけた。ほぼ同時期にリリースされたジャガーズの「星空の二人」が58位だったことを思うと、これは、新人バンドとしては、合格ラインだったはずだが、すでにGSは熱狂のピークを越え、ブームは低下しつつあった。

そして、ブルーインパルスにとっては、不運なことに、RCAでは、いっしょにライブをやったこともあった 内山田ひろしとクール・ファイブ(ライブでは洋楽カヴァーもやっていた)、藤圭子といったムード歌謡、演歌がヒットすることで、レコード会社の空気が、今更GSじゃないという方向へ向かってしまったのだ。

その結果、69年3月にリリースされた第二弾「メランコリー東京/小さな恋人」は、同じ村井邦彦の曲ながら、彼の作品としては、意外なほどムード歌謡にシフトした曲になっている。バンドにとっては、不本意なものだっただろう。この曲のバッキング・トラックは、メンバー自身でなく、スタジオ・ミュージシャンによるもので、ヴォーカルは、湯村が担当している。(当時は、メンバーの演奏力うんぬんよりも、レコーディングの所要時間を短縮するためスタジオ・ミュージシャンが使われたものも多い)ファーストと同じサウンドを期待をして聞くとたしかに、裏切られるのだが、歌とコーラスには、GSにしか出せない味わいがあるのでよく聴いてみよう。「小さな恋人」のほうは、69年的ハッピーポップなサウンド。だが、この路線変更は、ヒットには、結びつかなかった。

「太陽の剣/夜明に消えた恋」は、ライブでは更に格好よかったという意見も多く、ステージのオープニングやエンディングで、エキサイティングに演奏していたようだが、この「メランコリー東京」は、ジャズ喫茶などではあまり演奏しなかったようだ。
彼らが、「太陽の剣/夜明に消えた恋」の路線でシングルを出さなかったのは、残念だ。
 
 

一方、ブルーインパルスは、明治のグループサウンズ・フェスティヴァルのレギュラーとしていろんな公演にも出演している。

70年には明治製菓の「チョコで選ぶグループサウンズ日本一」で30位にランク・イン。そのご褒美として、万博のステージにも立っている。そして3枚目のシングル「苦しみのロック/別れの朝」を4月に、リリース。この曲は、バンド自身が演奏し、萩谷がヴォーカルをとっているが、GSをとりまく環境自体がすっかり変わってしまい、あまり話題にならなかった。そして湯村は、脱退、バンドは70年5月いっぱいで活動を停止した。

残された3枚のシングルでは、本来のブルーインパルスの姿がわかるとは言いがたいだろう。だけどファースト・シングル「太陽の剣/夜明に消えた恋」は、今聴いても十分格好いい。GSファンだったらこの二曲は絶対必聴だと思う!
 

現在彼らのすべてのシングルは、ブルーインパルス meets ザ・リード というCDで聴くことができる。
 
 

日本語のメニュー