Alan Merrill



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アラン・メリル来日公演決定!
英国音楽/VINYL JAPAN presents ALAN MERRILL vs JOHN FANNON
2014 NOV 08 (sat) & 09 (sun)
関交協ハーモニックホール (西新宿)
08(sat) OPEN the DOOR 18:00/START to PLAY 19:00
09(sun) OPEN the DOOR 17:00/START to PLAY 18:00
詳しくは、vinyljapan
Ticket in advance 7,000yen (inc VAT)




  アラン・メリル は、ニューヨーク生まれで、66年ごろからグリニッジ・ビレッジのガレージ・バンドで活動した後、68年に来日。外人ばかりのGS,The Lead に参加して日本での音楽活動をスタート。その後、ソロ、近田春夫と共に結成したゴジラを経て、かまやつひろし、大口広司と共に、ウォッカ・コリンズで活動し、73年に、ロンドンに渡りアローズを結成。Micky Mostがプロデュースした「Touch To Much」がイギリスでベスト10に入った。またアラン作でアローズがヒットさせた「I Love Rock And Roll 」は、後にジョーン・ジェットとブラックハーツがカヴァーさせ全米NO.1に。今までもロックのスタンダードナンバーの一つとなっている。
Alan
は現在も現役のロッカーとして活動している。
このページは、私が、Alan と交わした膨大な量のメールからアレンジして翻訳したものです。言葉使い等は、私個人の判断ですが、一人称を「俺」にしたのは、アラン自身の希望なので、それに沿った言葉使いにしました。なお日本にいた当時の彼の名前の表記は、Allanでしたが、現在は、Alanと綴っているのでそう表記しています。(名前はすべて敬称略にしました。)


アラン・メリル、フィル・トレイナー(1969年)

 
Hitomi
:日本に来たのはいつ?
Alan
1968年にニューヨークから来たんだ。母親*が、再婚した相手が日本勤務になったからだ。その夏は、軽井沢で過ごした。ある日両親が俺を赤坂のディスコ、ムゲンへ連れていった。そこで、ウエスタンカーニヴァルで、GOGO GIRLをやっていた女の子と友達になったんだ。彼女は、赤坂のPasha Clubのゴーゴーガールもやっていた。そして11月の半ば、彼女から、「リードというGSがギタリストを探している」と電話をもらったんだ。俺はPasha Clubへ行って、楽屋で少し話をした。みんないい奴だった。その日はマークの最後のステージだった。*次の日に出国することになっていたんだ。俺はタミアのギターを借りて、楽屋でマークと少しセッションをした。フィルがそれを聴いてすぐに俺をメンバーに加えることを決めたんだ。この日から俺はザ・リードのメンバーになった。
 
 
* 有名なジャズ・シンガーのヘレン・メリル ちなみに ローラ・ニーロは、本人が便宜上いとこと呼んでいるが、正確には、もう少し遠い親戚、ただ幼いころすぐそばに住んでいて、兄弟のような近い関係だった。アランは、後に結婚して長女が生まれた時に、彼女の名をとってローラと名付けた
*
 リード・ギターだったマーク・エルダーは、大麻不法所持で国外退去させられることが決まっていた。ずいぶん簡単に採用されたものだが、外人だけのGSというのが売り物だったリードにとって、当時日本にいた外人の中で、すでにステージ経験があり、歌が歌えて、ギターが弾けてルックスも良かったアランは、もってこいの存在だったはずだ。(これ以前に他のメンバーのオーディションをしたかどうかは不明)
オリジナル・メンバーは、Mark Eldergtr)、Arbuckle Tamia(side.gtr)、Alan Hill(drms)、Phil Trainor(bass)。リードは日本のRCA第一弾のバンドとして、「悪魔がれた青いバラ」でデビュー。ライブでは、マークのブルーズ・ギターが、他のGSから注目を浴びていた。なお当時のレコードでは、Tamia は、なぜかTamiya Arduckle と表記されているが,
これは間違いでファーストネームは、タミア、苗字がアーバクル が正しい)
H:それまでにリードのステージを見たことは?
A:いや なかった。 ただ母がテレビで彼らといっしょになったことがあって、どんなバンドかは、
聞いていたけどね。マークはB.B.Kingみたいなブルーズを弾いていた。
彼は、アメリカに帰ってから、しばらくビリー・プレストンといっしょに仕事をしていたが、その後の消息は、わからない。
H:このときすでにプロになるつもりだった? 
両親がミュージシャンだったから、音楽を仕事にするのは、すごく自然なことだった。だけど母は、それはすごく大変な仕事だといつも思いとどまらせようとしていた。日本に来るまでは、本名のAlan Sachsを名乗っていたけど、リードに入ったとき、(所属の)ビクター芸能の人が、母の知名度を考えて母の苗字を名乗った方がいいといってAllan Merrillにしたんだ。ところがリードには、アラン・ヒルがいて、紛らわしかったので、後から、Paul Merrill という芸名を考えた。リードをやめてから Allan に戻ったんだ。
Paul
と名乗っていたことは、話をするまでずっと忘れていたよ。
H:最初に楽器をはじめたのは、いつ?
A:父親が14歳の時に、ガット・ギターを買ってくれたんだ。その前からピアノは弾いていた。10歳の頃クラシックの ピアノを少し習ったけど、それは、指を動かす練習のようなものだった。ポップ・ミュージックをどう演奏するかは、自分で学んだんだ。 父は、Aron Sachsというミュージシャンで若い頃は有名だったけど、ドラッグでキャリアをダメにしてしまった。
エレキギターは、その後に、建設現場で掃除のアルバイトをしてリッケンバッカーを買ったんだ。
 
H:NYでもバンドをやっていたんですね。
A:Watertower Westというバンドで、俺は、12弦ギターとリード・ボーカルを担当していた。バーズやリーヴスの影響を受けたフォークロック・バンドで、グリニッジ・ヴィレッジの「The Caffe Wha」というクラブのハウス・バンドをやっていた。ここで同じころ演奏していたのは、オーリアンズを結成したジョン・ホールのいたカンガルーやブルース・スプリングスティーンのキャスティルズだった。俺達はみんな昼間のアルコール抜きのステージ(未成年なので)を担当していて、夜は、同じ場所に、ジミ・ヘンドリクスやリッチー・ヘブンスが出演していたんだ。
このほかにUnderground Club というところでは、観光客相手に一人で、エレクトリック12弦・ギターも弾いていてこれはすごくお金になったよ。*
 
* グリニッジ・ヴィレッジ時代のことは、英文ページに詳しく紹介しています。興味があったらぜひ読んでください。
NY
'60sガレージ・シーンについてまとまった文献はないのでかなり貴重な証言もあり。当時の写真も掲載
H:まだ学生でしたね。
A:ロング・アイランドのCW.カレッジに1年半行っていたから途中から上智大学に入って、詩と哲学とクリエイティブ・ライティングを勉強した。とてもいいクラスだったよ。でも音楽の仕事が忙しくなって3年生の時にドロップ・アウトしてしまった。
H:リードの2ndアルバムについて
A:まだバッキング・トラックが完成していない曲もあった。「Valerie」の俺のギターは、オーヴァー・ダブなんだ。このギターには、自信があるんだ。なにしろマークのギターの腕は、評判だったので、ヤードバーズで、ジミー・ペイジがジェフ・ベックの後釜に入ったときのような気持ちで、マークに負けないようにベストをつくしたんだ。そしてフィルがボーカルをとって、俺が高音のハーモニーをつけた。だからこの「Valerie」の演奏は、今でもよい出来だと思っている。ギターのフレーズを聴けばマークのスタイルと全然ちがうのがわかるだろう?このとき使ったファズは、後で、ロック・パイロットの矢花郁夫に貸したらこわされてしまったんだ。
 
このほかに「Daydrem Beleiver」、「HeJude」、「Spoonful」のヴォーカルをとったんだ。「Spoonful」では、ギターも俺が弾いて「Summertime Blues」は、フィルが歌った。この「Spoonful」のギターは、今聴くとAwfulだね。(苦笑)ジャック・ブルースみたいにやろうとしたんだけど。
20-10(誓いのフーガ)」は、アラン・ヒル、「Gotta Get A Message To You」は、タミア、「Amen」と「Baby Come Back」は、マーク、「The Sun Ain't Gonna Shine Anymore」「Sound Of Silence」は、フィルが歌っている。
 
 
 

THE LEAD- this * means Mark is not on the track.

*HEY JUDE:my lead vocal ,guitar ,and piano
*GOTTA GET A MESSAGE TO YOU-Tamia lead vocals
*DAYDREAM BELIEVER-My lead vocal, guitar and piano
DOCK OF THE BAY- Phil lead vocal
JUMPING JACK FLASH- Mark lead vocals
LIGHT MY FIRE-Phil lead vocals
FOXY LADY-Phil lead vocal
*SOUNDS OF SILENCE- Phil lead vocal
BABY COME BACK - Mark
*TWENTY TEN- Alan Hill lead vocal
*VALLERI- Phil Lead Vocal, Alan Merrill lead guitar
AMEN- Mark lead vocal
*SUN AINT GONNA SHINE- Phil lead vocal
SUMMERTIME BLUES/SPOONFUL-Summertime blues Phil Lead vocal, Spoonful
 Alan Merrill lead vocal, Mark Elder lead guitar. This track was not  finished before I joined the band, but Mark was gone from Japan when the vocal sessions were recorded.

選曲はバンドが決めたんじゃなくてプロデューサーのロビー和田が決めたものだ。
写真は撮らなかったから、アルバムには、写っていないけど、これは、俺がプロとしてはじめてレコーディングした記念すべきアルバムなんだ。*
それからハープを吹いているのは、スティーブというアメリカ人だった。
     
* 「ブルーインパルス VS ザ・リード」のCDで 彼がリード・ギターを弾いている「バレリ」とボーカル、ギターを担当した「スプーンフル」を聴くことができる。「バレリ」の演奏は、単なるカヴァーでなくよりハードな独自のアレンジに注目。力を入れただけに、実は、この「バレリ」が、2ndアルバムの中で一番出来の良い作品になっている。
彼が参加したこのアルバムは、洋楽ヒットのカヴァー集で、バンドとしてのリードのアルバムというよりも、喫茶店向けのBGMっぽい選曲だった。
 
H:ふりかえってみてこのレコーディングはどう思う?
A:俺もフィルもすでにオリジナル曲を書いていた。でもヒット曲のカヴァーを演奏しなければいけなかったんだ。それが、レコード会社の方針だったんだ。でもプロデューサーのロビー和田は、すごくいい人で才能もあった。
H:ライブはどんな感じだった?
A:リードの活動の中心は東京で、赤坂のPaha Clubでライブをやることが一番多かった。このほか川崎のフロリダやあちこちのACBへも出ていた。名古屋や大阪へ行ったこともあるけどクラブの名前は忘れてしまった。
ライブでは、「The Sun Ain't Gonna ShineAnymore」や「Justine」「If It Don't Work Out」「Spoonful」「Light My Fire」俺が歌ったのは、「Jumpin Jack flash, Jeff's Boogie」「Back In The USSR
Spoonful」 「Well Respected Man, Shapes Of Things, Up From The Skies,や 「Satisfaction」ほとんどはヒット曲のカヴァーだった。このほか「悪魔の青いバラ」をやっていた。全員が交代でリード・ボーカルをとっていて女の子たちが絶叫していた。その頃の俺は、ワウワウ・ペダルやファズをたくさん使ったロックを演奏していた。マークは、ブルーズのピュアリストで、エフェクターは全然使っていなかったんだ。俺が影響を受けたのは、ジミ・ヘンドリクスやジェフ・ベック、エリック・クラプトン、マークが影響を受けていたのは、B.B.キングやアルバート・キングそしてゲイトマウス・ブラウンだった。
「青いバラ」を歌っていたのは、フィル。タミアは、まるでマンガの主人公みたいで、目がパッチリとしていて、前髪がいつも片目にかかっていた。彼はハーフで日本人と白人のいいところだけを受けついだような美少年で、女の子たちのあこがれのまとだったよ。
Pasha Club
には、イギリスのThe Clinicというバンドも出演していた。
H:選曲も自分たちで?
A:ライブでは何でも好きな曲をやっていた。*
H:マークからアランに代わって全然音楽の傾向が変わったわけだけどお客の反応はどうだった?
A:俺たちは、シリアスに音楽をやっていたけど、お客の95%は、ティーン・エージャーの女の子だったから俺が加入して喜んでいたよ。(笑)若くて、かわいい男の子たちばかりになったんだから。女の子たちの絶叫の中毒になるほどすごかった。でもそういうのは、誰にでもできる経験じゃないから体験できて良かったと思うよ。*
 
*リードは、もともとハーフのタミアの美少年ぶりでも知られていて女の子のファンがたくさんいた。
残りの5%の方の、マークのブルース・ギターの腕に注目してテクニックを盗みに行ったほかのGSの話ばかりが有名になっているが、こういう側面もあったのだ。後にイギリスでもアローズのメンバーとして女の子にさわがれるポップ・スターになるアランだが、NY時代は、メガネをかけていたこともあって、彼の音楽のファンになる子はいてもルックスでさわがれたことは、なかったらしい。
 
 
H:日本のGSは、どうだった? GSは、日本のガレージ・パンクだったと思う?
A:GSは、もっとレコード会社や事務所にコントロールされていた。
だからセミ・プロのバンドのほうが、ガレージ・バンドに近かったと思う。
でも池袋のドラムや新宿のACBで演奏するのは、グリーニッジ・ヴィレッジで演奏するのと大差はなかったよ。音楽に対してシリアスな、いいバンドがたくさんあった。ちがっていたのは、お客だ。昼のショーでは、学校帰りの制服を着た女の子たちがたくさんいたんだ。今では、あんなふうに制服姿のファンばかりの前で演奏するなんて想像できないよ。
でも彼女たちは、よい観客だったし、ニューヨークと同じようにScremin'していた。
 
H:解散したのはいつ?
A:69年の半ばだったと思う。フィルに電話しても全然つかまらなくて、彼のアパートへ行ってもいなかった。いつもだったらスケジュール確認の電話が入るのに、4日たっても連絡がなくて心配して家に帰ったら、新聞にフィルが大麻でつかまったという記事が載っていて、彼に何がおきたかわかったんだ。フィルは、日本から出なくてはいけなくなったので、Pasha ClubでいっしょだったThe Clinicに参加するためそのままイタリアへ行った。*「青いバラ」がフィルの歌だったこともあって、結局これが原因でThe Lead は解散したんだ。辻さんという大ファンの女の子がいていつもライブを見に来ていた。きっと彼女だったらステージの写真も持っていると思う。
現在アラン在籍時のリードの写真を探しています。お持ちの方はぜひご連絡ください。
 
 
    *これは、ClinicのベースのArchieが抜けたためその代わりとして。Clinicの元のメンバーは、Roy Morris gtr) 、 Archie Leggett bass,Derek Wilsondrums,  Allan ReevesHammond B3)。Archie は、後にケビン・アイアーズのThe Wohle Wide World に参加たこともある。
当時の日本には、後のマグマのメンバーがいたCRUCIFERIOUSが、フレンチ風ピンク・フロイドといった感じの演奏をしていたりと、結構いろんなバンドが来ていたようだが、レコードを残していないので詳しいことは、不明。(情報歓迎)
69年の後半、俺はロンドンへ行ってフィルと会った。そしてデッカ・スタジオで「レディ・ステディ・ゴー」のホストだったMichael Aldredのプロデュースでデモを録音した。出来は良かったと思うけど残念ながらレコード会社と契約することはできなかった。フィルは、ドラマーとしてPick Withers(後のダイアー・ストレイツ)を連れてきた。いい奴だったけど彼の音は俺の好みとはちがっていたんだ。フィルはこの後、フランスへ渡って、Jhonny Hallydayのバックをやっていた。それからバークレー・レコードから「Animal Trainer/Phil Trainer」というソロ・アルバムもリリースしている。彼とはもう長いこと会ってないけどフランスに住んでいるみたいだ。
* フィルが、ドイツで72年にリリースしたアルバム、PHIL TRAINER/TRAINER は、2007年、CD化された
A:ロンドンから戻ってからディスコのビブロスでユーヤ(内田裕也)に会った。俺はそこで、片っ端から、歌やギターを弾く仕事を探している人はいないか尋ねているところだった。そしたら彼に、いっしょにTVにでないかといわれて、多分フジテレビで、「Back In The USSR」を歌ったんだ。TVに出た次の週には、渡辺プロと契約していた。あっという間に決まってしまったんだ。
ヤング720*のホストをやったこともある。これは、とても楽しかった。
 
*彼は、比較的制約の少なかったザ・リード時代と同じような活動ができるつもりで、契約したようだが、実際には、いきなり芸能界の真っ只中にほうりこまれることに。相当の忍耐を要したとのこと。着るものもリード時代は、自分たちで選んでいたのが、今度は、与えられたものを着ることになったし髪の長さも制約を受けた。なによりも自分のやりたいように音楽をできなくなってしまった。
* TBSで毎朝720分からやっていた若者向け情報番組。朝からGSのライブが見られる貴重な存在だった。アランは、海外から来たゲスト(サジット・カーンやビヨルン・アンドレセンなど、彼らは夜にビブロスへ行ったら来てたとか)の紹介などやっていた。又お母さん伝来の「チャーリー・ミンガス風ハンバーガー」なんていう料理も紹介したこともあるそうだ。
H:当時影響を受けた音楽は?
A:キンクス、バーズ、ビートルズ、そしてローリング・ストーンズ。
タイガースやテンプターズも好きだったよ。
H:ファニーズ*のメンバーとして写っている写真もあるけど? みんなといっしょに黒いスーツ着て・・
A:事務所は、俺をメンバーにしたかったみたいだ。でも俺はソロとして契約して、ファニーズのメンバーにはならなかった。でもゲストとしてよくいっしょに演奏していた。たいてい彼らのショーの最後の方で、おれが2-3曲歌ったんだ。ファニーズが着ていた黒いスーツは事務所が用意したものだけど、俺のあの黒いスーツは自前なんだ。初期のビートルズみたいに肩章のついたデザインでオーダーしたものなんだ。みんなにあわせてあのスーツを着たんだ。
ロック・パイロットになってからもよくいっしょにやっていた。ファニーズといっしょにやった曲で覚えているのは、「Only One Woman」や「Get Back」。
ロック・パイロットとは、「Back In The USSR」やトム(木幡聖彦) とデュエットして「Teach Your children」ホリーズの「Marigold」やビートルズの「Blackbird」をやっていた。それからウエスタン・カーニヴァルで、NY時代の友達Tommy Feherが作った「Sing Little Bird Sing(レフト・バンクがレコーディングしている曲)も歌ったこともあった。
そうだトムとは、ビートルズの「Two Of Us」も良くデュエットした。
* 新世代のGSとしてタイガースの元の名前をもらって69年に結成されたバンド。元チェック・メイツの西島隆一<ルイ西島>(gtr)、元フラワーズの中村ケント(vo)、村上進、吉田茂樹(bs)、佐藤のりお 結局レコードを出すことなく解散、中村、吉田はロック・パイロットへ参加した。
 
ロック・パイロットは、ファニーズ、PSビーナス、ピーターズという後発GSからメンバーをピックアップして作られたバンドで、ライブでは、和製パワーポップと呼んでいいような力強い演奏をしていたが、当時のロックファンからは、ミーハー相手だと思われていて本領を発揮できなかった。アランが歌うときは、ロック・パイロットのツイン・ボーカル、ケントとキー坊は、衣装変えをするなど歌には、加わらなかったようだ。
当時のアランとロック・パイロット(714月 第44回ウエスタン・カーニバルより)
H:いっしょにやることを決めたのは誰?
A:渡辺プロが決めたんだ、でもそれは,俺にとってもいいことだった。それまでは、一人でアコースティック・ギターを持ってステージにでたいたけど女の子の絶叫でアコースティックでは、ほとんど歌うのが不可能なこともあったから。* 女の子がさわいでくれるのは、うれしいけどなにしろ音が聞こえなかった。それにファニーズもロック・パイロットもいいバンドだったし、みんな好い奴だった。
 
*タイガースの田園コロシアムのコンサートに前座として出たときは、まさにこの状態だったらしい。
A:一番良く覚えているのは、日劇ウエスタン・カーニヴァルのことだ。ショーが終わると女の子が殺到するので、銀行が使うような装甲車に、みんなで乗せられて毎日公園のちがう場所まで送られたんだ。それからそれぞれ自分の家に帰った。これを毎日繰り返していた。ウエスタン・カーニヴァルでは、テンプターズ、タイガース、スパイダース、ブルーコメッツ、フラワー・トラベリン・バンド、フォーリーブス、ファニーズ、ハイ・スパンキー、ロック・パイロット、ゴールデン・カップスなんかといっしょになった。多分5回のちがうウエスタン・カーニヴァルに出たと思う。
H:プログラムでは3回ぐらいしか確認できないけど。
A:実際には出演したのにプログラムに載っていなくて俺のファンが怒ったこともあるんだ。それからウエスタン・カーニヴァルでは、オーケストラといっしょに出演したこともないし、曲目も実際とちがっている。万博のステージに出たときもプログラムには、載せてもらえなかった。*
一番最初に出たのは、70年のはじめでファニーズといっしょだった。この時楽屋ではじめてアイス・コーヒーを飲んだんだ。すごく濃かったけど、ウエスタン・カーニヴァルの初日の前の日は、みんな徹夜でリハーサルをやったから濃いコーヒーのカフェインがちょうど良かった。
 
* アイス・コーヒーは、日本で発明されたものです。
アランの担当者は、英語が得意な人という人選だったため彼の音楽にはあまり理解がなかったようで、あまり良いサポートを受けられなかったらしい。
A:一度いとこのローラ・ニーロが日本へ来たときに、ウエスタン・カーニヴァルに招待したことがあるんだ。彼女は、ショーを楽しんで、俺の楽屋に来た。そしてそこでムッシュや他のミュージシャンといっしょにタタミの楽屋で歌を歌ったんだ。ムッシュは、これをすごく楽しんでいたよ。
ローラとはいっしょに育ったんだ。そして彼女の最初のプロのデモテープで、俺はハーモニカを吹いたこともある。
A:テレビでは「スター千一夜」に出て尾崎紀代彦といっしょになったり、「時間ですよ」に何話か出たこともあるよ。
これは、風呂屋のバンドの外人シンガーの役で、マチャアキ、ムッシュ、ジョーといっしょにやったんだ。
A:70年に大阪の万博のステージに出たこともある。イギリスのバンド、アライバルも出演したんだ。かつらをつけた米軍あがりのMother SuperiorというSillyなバンドも出たけど、アライバルはグレートだった。
 
俺はロック・パイロットといっしょで、毎日2ステージで1週間出演した。ショーケンとジュリーはいいライバルという感じだった。そのころからヒロシ(大口広司)とは友達なんだ。
H:アライバルとは野音でもいっしょになってますね。
A:アライバルがステージの上からいっしょにやろうと俺をさそったけど、もう自分の出番は終わっていてそんな気分になれなかったから断ったんだ。でも彼らはいいバンドだったよ。
 
714月のロック フェスティヴァル イン ヒビヤ
のフライヤー(当時はチラシと呼びました)両日とも7000人以上の観客を集めた。
またアランは、717月の「ロック フェスティヴァル イン ヒビヤ」にも出演している。この時のほかの出演者は、ゴールデン・カップス、モップス、PYGなど
 
 
A:ところで PYGの綴りを考えたのは、俺なんだ。渡辺プロでは最初PIGという普通の名前を考えていた。俺はそれは、"テリブル"だと反対して、THE BYRDSTHE CYRCLE のようにPYGと名づけたらいいと言ったんだ。
 
 



H:最初のアルバム「Alone In Tokyo」について
A:これは、まるで、自分がデビッド・キャシディやモンキーズになったみたいに、すごくコントロールされた作品だった。自分がアーティストでなくて只のセッション・シンガーになったような気分だった。歌うために全部の歌詞を読んだけど日本語の意味は、よくわからなかった。すでに自分でたくさんオリジナルの曲を書いていたのに、他人の書いたポップな曲を歌わなければいけないのには満足できなかった。曲としては、いい曲もあったけど、それは、自分のやりたいこととはちがっていたんだ。*
でもハプニングス・フォーの「あなたが欲しい」は、すごく気に入った曲だからこのアルバムに入れた。70年に銀座ACBのハプニングス・フォーのライブには、何度もゲストで出演した。そしてウォッカ・コリンズともいっしょにプレイすることになるシノ(篠原信彦)に会ったのもこの時だ。
H:ハプニングス・フォーとはどんな曲を?
A:トメ北川とビートルズのメドレーをデュエットした。多分「アビーロード」の中の曲だったと思う。
* 711月リリース
このアルバムは、CDで再発されている。井上孝之、かまやつひろし、クニ河内等が曲を作っている。NYでガレージ・バンドとしてステージを踏み、日本でリードのメンバーとして活動したあげくに、不本意な形でアイドルとしてソフトロックを歌うことになりかなりフラストレーションがあったようだ。
というわけで本人にとっては、不本意だったこのアルバムですが、ソフト・ロックファンには見逃せない1枚、またGS人脈度が高いので、GSファンも、注目。
ワーナーから<ニューロックの夜明けシリーズ>のひとつとしてCD化されている。WPC6-8451 
 
H:このアルバムは、アランの音楽性とはすごく違うね。
A:リードでやった「Valerie」は、ちゃんとしたハードロックだった。あれから俺は、音楽的にはいっぱい進歩していたのに、このアルバムでは、逆に何歩も後ろにさがった感じがして落ち込んだ。マネージャーたちに、こんなのはやりたくないと言ったけど、これがいやだったらレコードは出さないといわれて、俺はそれを受け入れたんだ。
このアルバムはソフト・ロックで女々しかった。この不満から俺は酒を飲むことを覚えたんだ。(笑)
すごく"忍耐"を必要としたよ。
H:だけどこのアルバムの日本語の発音はとても上手。それから自分で楽器を弾いた曲もある?
A:ありがとう。少なくとも俺はうまい日本語の発音で歌えたと思うよ。歌詞を読んで一行ずつ練習したんだ。「若者の出発」では、俺がへフナーのベースを弾いて、ムッシュがコーラスをつけている。
H:この曲はなかなかいいと思う。
 
H:あの頃のアランはすごくかわいかったから、プロダクションは、あなたをアイドルにしようとしたみたい。
A:たしかにあのころの俺は、かわいくて女の子みたいだった。でも今振り返るとそれは、俺の音楽ビジネスにとっては、逆効果だったと思う。そういうルックスでは、誰もシリアスに見てくれなかった。ジョン・レノンやボブ・ディランみたいなルックスの方が都合がよかったと思う。
H:なるほどそうかもしれない。
この「Alone In Tokyo」 のジャケットでは、*サングラスをかけて大人っぽく写っていて、裏ジャケでは、すごくかわいいく写っているのがおもしろいけど。
 
*ニューヨークでは、夜でもこのサングラスをかけていたので、かなりイメージがちがっていた

A:この写真はケン影岡が地下鉄の中で撮ったんだ。彼はGSの写真を撮っていた中で一番だったと思う。仲のいい友達だったけど何年か前に亡くなってしまった。裏の写真は代々木のオリンピックスタジアムのところで撮った。この前日本へ行ったときに、この石のところをもう一度歩いてみたけどあの頃と変わってなくてすごく懐かしかったよ。*
*この時期のアランは、ファッション・モデルとしても活動していたほどで、かわいい系のかなりの美少年。
プロダクションがアイドルとして売り出そうとしたのも仕方ないという感じのルックスだ。その上、化粧をして外人版ピーターみたいになれとまでいわれたらしいが、さすがにこれは拒否したそうだ。
だが、この不本意なアイドル路線があたらかったおかげで、アランは、本来やりたかった方向へと軌道修正してゆくことになる。















A:渡辺プロと契約が切れてからマッシュルームでリリースした2ndアルバムに「Merrill 1」*というタイトルをつけたのは、これが自分にとって最初のアーティスティックなアルバムという意味なんだ。全曲自分で書いたし、ほとんどのパートを自分自身でやった。今ふりかえってみるともっと多くのプレイヤーを使うべきだったと思う。ちょっと自己満足的なところもあるけど、それは、「Alone In Tokyo」でコントロールされていたことへの反発だった。ミッキー・カーティスが良いプロデュースをしてくれて、このアルバムの中の曲は、今でも気に入っている。実は、タイニー・ティム*が、この中の「Movies」という曲をカヴァーしたこともあるんだ。
    * 721月に村井邦彦のレーベル マッシュルームからリリース。CD化希望!!
* タイニー・ティムとは、彼が3歳のころに、両親が一部がタイニー・ティム、二部がアランの両親というパッケージでツアーしたこともあるそうだ。
H:当時の機材でよくこれだけの録音できたと思うけど、何トラックで?
A:
4チャンネルと2チャンネルの2台。もっとオーバーダブして 本当は、ボーカルもダブルにしたかったけど、この機材では何度もオーヴァー・ダブするとヒス・ノイズが出るからそこまでは、できなかったんだ。
でもミッキー・カーティスは,本当にいいプロデューサーだったと思うよ。
 
H:これはシングルだけど、コーラスは誰?
A:コーラスも全部自分でやった。ハーモニーのミックスがちょっとヘヴィーだから、もし 今リマスターすることができたら、かなりちがう音になると思うよ。ドラムが原田裕臣、ピアノが大野克夫、残りのパートは、全部自分でやったんだ。
多少のリヴァーブを使っただけで、後のサウンド・エフェクトは、使っていない。今のようにハーモナイザーなんかは、なかったから。でも当時のスタジオで、できる限りのベストを尽くしたと思う。
*実は、その後もう1枚リリースする話もありデモテープを途中まで作ったようだが、その時期の彼はそれまでよりハードなロックをやりたかったので、ソフト・ロック路線の村井邦彦の意向と合わず契約を解除している。
そして待望のバンドを結成することになる。
 
A:ステージでは、木幡トム、近田春夫、金沢ジュンがバックをやっていた。また山内テツと原田裕臣、そして近田春夫や柳田ヒロがキーボードをやるときもあった。
俺のライブとレコードは、まるっきりちがっていた。ステージでは、ハードにロックをやっていたのに、レコードでは、ソフトな曲ばかりで不満だった。でもこれは俺だけの問題でなく当時の多くのバンド同じ問題をもっていて、みんなライブのほうがワイルドで、良かった。
実はテツと、ポール・コゾフといっしょにレコードを作ろうとしたこともあったんだ。サイモン・カークもこれに賛成して、ホテル代と飛行機代を出してくれればそれでいいと言ってくれが。ところが、レコード会社にこの話をもっていったら、「そんなものは日本では売れない」と断られてしまった。
その後で、テツは、イギリスへ行ってKossoff, Kirke, Tetsu, and Rabbit に参加したけど、俺は、渡辺プロとの契約下にあったので参加することができなかったからすごくフラストレーションがあった。でもテツとは、俺がイギリスへ行ってからもずっと仲のいい友達だった。*
 
*これは714月にフリーが来日したときの事。この年の6月にテツはサイモンとコゾフをたよってロンドンに行き、スタジオ・ミュージシャンとして働きはじめる。そしてアメリカからジョニー・ナッシュといっしょにロンドンへ来てセッション・マンをやっていたラビットと共に、フリーのマネージャーだったジョニー・グローバーのプロデュースで、「コゾフ・カーク・テツ・ラビット」というアルバムが作られる。そして727月のフリーの日本公演を機に、テツはアンディ・フレーザーの抜けた新生フリーの正規のメンバーになる。
その後テツは、フェイセズにも参加したが、これに際し、イギリスでミュージシャン・ユニオンを取得するために非常に苦労した。

H:もったいない!
H:「Father And Mad Son」にも参加してますね。*
A:ムッシュのためにいくつか詞を書いたんだ。あのアルバムは、今でもいいと思うよ、ティーブのことは、まるで自分のおじさんみたいに好きだった。そしてムッシュは兄貴みたいな存在でとても親切だったよ。
Of The People」では、ザ・バンドとジョン・レノンの影響を受けた。このレコーディングは、すごくうまくいったそしてこのアルバムのために作った曲で気に入っているのは、「Long Road Home」、これは、ハリー・ニルソンの影響をうけたんだ。
ティーブはグレートで親切だった。このアルバムが出たころ、TVでティーブとムッシュそしてムッシュのいとこの森山良子とクリスマスのスペシャル番組にでたこともあった。
*
ムッシュかまやつ(かまやつひろし)とは、アランが最初にウエスタン・カーニヴァルの楽屋で知り合ったそうで、すぐに仲良くなったとのこと。
ムッシュが7112月にリリースした作品で父親でジャズ・シンガーのティーブかまやつやスノッブな友人たちとセッションしたアットホームな作品。アランは、このアルバムでムッシュと共作で4曲作っている。ムッシュがラフなメロディラインを作り、それにアランが詞を載せ、メロディを多少FIXしたようだ。Of The Peopleでは、ムッシュといっしょにリード・ヴォーカルをとっている。(コーラスはガロ)この作品は、フリーに参加する前の山内テツがフリーの曲をカヴァーしているのもおもしろい。VIVID SOUND よりCD化されている
CHOP049)
 
H:ムッシュとデュエットした「Of The People」は、のびのびと歌っていていいと思う。
A:自分の言葉で歌っているからね。
あの頃自分たちのやりたい音楽をそのままレコードに出来るバンドは少なかった。だからはっぴいえんどは、Amazingだったよ。ミッキー・カーティスのソロで、俺がアコースティック・ギターを弾いて細野がベースでいっしょにレコーディングした。彼は、それまで俺が、聴いたことのないような素敵なベースを弾いてセンセーショナルだった。*
 
* ミッキーカーティスの72年の作品 「耳」
アランのほか、細野晴臣、大野克夫、原田裕臣、日高富明などが参加
H:モデルとしては?
A:JUNクール・エレガンスのCMに出たときに俺がもらったは、たったの3万円だった。
これは、まだ渡辺プロに入る前で、個人的に契約した仕事だった。このCMは、テレビでいっぱい流れ、渋谷の西武デパートでは、俺の姿をしたマネキンを使ったキャンペーンもやった。自分の顔をしてJUNの服を着たマネキンがたくさん並んだのはとても不気味だった。もしこのCMをやったのが1980年だったら俺は、きっと金持ちになれたのに。しょうがないね。
渡辺プロに入ってからやった日産のキャンペーン(ニッサン サニー エクセレント)は、もっと大がかりだった。俺はメイクをしてまるでグラム・ロックのスターのような姿になった、まだグラムが流行る前だったのに。このCMは、8つのヴァージョンがあってTVでいっぱい放送されたんだ。

 
 
これは雑誌のモデルとして、ナンシーと(70年)
 
 
 

ジーンズの広告 秋川リサと
 
 
 
A:渡辺プロをやめた後は、いろんなセッション・ワークをやった。音楽的には、そのほうがずっとおもしろかった。
ガロのヒット曲「学生街の喫茶店」でもベースを弾いたんだ。「一人で行くさ」は、とてもいい曲だった。
* 「学生街の喫茶店」のベースは、細野晴臣というのが定説なので、これは、アランが曲を勘違いしている可能性が高い。
ガロでは、「美しすぎて」「涙はいらない」「明日になれば(このベースはすごく気に入っている)」もやった。
H:「明日になれば」は、アランがやってるってすぐわかるね。
A:
そう これは、譜面があったんじゃなくて 自由に俺のスタイルでやらせてくれたんだ。だから楽しんで出来た。
それからTOO MUCH のジュニーのシングル「She Is My Lady」でもベースを弾いたんだ。
H:日比谷野音で、ジョンレノンの「イマジン」をフルカヴァーしてファンの度肝を抜いたことがありますね。
A:これは、ソロ・アクトでバックは、テツ山内、近田春夫、原田裕臣だった。俺はギターで観客は、熱狂した。多分俺のステージで日本で一番良かったものの一つだと思う。もうひとつは、ウォッカ・コリンズで73年のニューイヤーズ・イヴに早稲田大学に出たとき。あまりに観客が熱狂したので6曲歌ったところで、警察が止めに入ったんだ。Cazy chaos....Police, riots. That's rock n roll.
 
 
H:ゴジラを結成したのは、いつ?
A:72年の春、近田春夫(kyb)と金沢ジュン(drms)*とはじめたんだ。ゴジラはいいバンドだった。俺たちは夏に軽井沢のアゼリアクラブに一ヶ月ずっと出演した。それから「小さな恋のメロディー」の映画の上映の前のライブで、全国を廻った。映画のフィルムが来る前にステージで演奏したんだ。
ハルオの友達がマネージャーで、オリジナル4曲のデモを作っていろんなレコード会社に交渉してくれたけど結局契約することはできなかった。俺たちは斬新すぎたんだ。
 
*近田と金沢は、この前に元ビーバーズの平井正之、カーナビーツの喜多村次郎のバンド、ライフに、ブラインドバードにいた大島勝とエモーションというバンドをやっていた。エモーションには、元ビーバーズの成田賢、平井正之も参加していた。

結局仕事がなくて長続きしなかったんだ。仲が悪くなってやめたわけじゃない。一時は、ハルオと俺、そしてタカナカ*、 ヒロシ(大口)でユーヤの1915ロックンロール・バンドのメンバーをやったこともあった。ハルオは才能があって、しかもユニークなユーモアのセンスがあった。きっと今もそうだろう?
* 高中正義 成毛滋のフライド・エッグにベースとして参加。サディスティック・ミカ・バンド、サディスティックスでギターを勤めた後、ソロとして多面な活動をしている。
H:ゴジラは、ベースレス?
A:ステージではハルオが左手でドアーズのレイ・マンザレクみたいにフェンダーのベース・キーボードをやっていた。デモテープでは、俺がベースとギターの両方を弾いた。
 
H:「GO GO 大パーティ」というレコード(企画物)に参加してますね
A:カナダから帰ってきた加藤ヒロシ(元リンド&リンダーズ)が、イエロー・ジプシーという名前で、スタジオ・ミュージシャンとプロデューサーをやっていて彼のプロデュースでセッション・マンとしてゴジラは、「GO GO 大パーティ」というアルバムのレコーディングに参加した。カトウとは仲良くて、いっしょに仕事をしたけど、彼がゴジラのメンバーになったわけじゃないし いっしょにバンド活動したわけでもないんだ。
このアルバムは、全部カトウが選曲して 俺たちは、只セッション・マンとして仕事をしただけだ。
 
*ゴジラとイエロー・ジプシーとして活動したと書いてあるものもあるが、これは、まちがい。

H:グラム・ロックもやってるけど?
A:それもカトウの選曲。でも この仕事は、ヒットする曲がどんな構造をしているのかというのがわかって、勉強になった。
 
*ゴジラが活動したのは、72年春から約半年ほどだが、はっきりと解散したわけでなく、アランが、かまやつひろしのバック、近田春夫が内田裕也の1915ロックンロールバンドへ参加と他の仕事が増えて自然に消滅したようだ。
このかまやつひろしのバックが発展してウォッカ・コリンズになる。
加藤ヒロシは、後にイギリスに渡り、ティラノザウルス・レックスのスティーブ・トゥックとレコーディング・セッションしたこともある。

というわけで
ウォッカ・コリンズのページへ続く。
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